予防原則というマジック

 10月27日の原告尋問での松井氏の発現を聞いていると、リスクコミュニケーションのパネルディスカッションで、環境ホルモンを扱う場合、予防原則の立場に立って、研究を進めるのがよいと言いたかったみたいだ。当日使われたレジメを見ると、最後の一枚のみそれらしきレジメがあり、その前は、如何に自分が画期的な(本人がそう思っているだけだと思うが)研究を行ってきたかを発表している。
 発表の最初のほうで、環境省の課長の発言を引用して、「如何にわかっていないかが、わかった」的な発言をしているが、そういった不明瞭な研究の進め方に問題があるのではないかというのが、当日のパネルディスカッションのテーマではなかったのだろうか。
 パネラーの中で、実際に環境ホルモンを研究しているのは、松井氏のみだったと尋問では説明していた。しかし、会場にいる多くの研究者は、松井氏と同業であり、環境ホルモンの科学者たちだったろう。もし、環境ホルモンを研究している人の代表であるという立場ならば、個人的な研究内容ではなく、全体としてどういう取組方をしてきたかを説明すべきだったのではないだろうか。
 結局のところ、予防原則と言った名のもとで、好き勝手に研究テーマを広げているといった世間の見方があったにもかかわらず、自分の村の常識が正しいという主張をしたかったのだろうが、残念ながら松井氏の発表ではそれすら伝わらなかった。
 証人尋問では、えんえんと1時間をかけて何を名誉毀損と思っているかを説明しているつもりだったのかもしれないが、弁護団の意図のひとつである、リスクコミニュケーションには予防原則を当てはめるべきという説明を松井氏はさせられただけだった。
 もし、予防原則というものを使用しなければならないのならば、政治的判断で使用すべきで、研究者が原則として利用するものではないと思っている。予防原則の立場に立ってしまうと、曝露量という指標が欠落しやすい。松井氏の発表でも、ダイオキシンに毒性があるまではよいのだが、どの程度の量で毒性が発生するかは報告されていない。また、解毒機構が働かないから毒性を示すという考え方も今一理解ができない。体に蓄積されるのであれば、どのくらい蓄積されると毒性を示すのかと行ったデータも合わせて示してもらはないと一般人には理解できない。
 予防原則のマジックは、一般の人々が恐怖感を感じてくれれば研究テーマとして成り立ってしまうという部分にある。ここの部分に歯止めをかけないかぎり、無駄で非効率な研究が蔓延することになると思う。