通訳養成の必要性

 安井至先生の「市民のための環境学ガイド」で「環境研究の将来と語学力」が述べられている。その中で俯瞰型研究を進めていくためには、語学力が必要だと述べられている。俯瞰(ふかん)とは、高いところから見ること。ただ、ここで言っている俯瞰型研究は、高見の立場、つまりトップダウン方式という意味ではなく、全体感を持った研究を意味する。環境問題の場合、常にトレードオフがあり、全体を見ながら、「こんなところか」、という「悪くは無い解」を探し出す必要がある。

A君:これまでの議論で、俯瞰型環境研究というものが次のような種類があるということが分かります。今後の環境研究は、このような方向性になるでしょう。
(1)政策研究型
(2)地域研究型
(3)国際ガバナンス型
(4)教育・人材育成型
の4種類があるようですが、どうもお互いにかなり重なっていて、実際には、重心の位置が多少違うだけかもしれません。
B君:それでは、具体的にどのようなものが必要かということになる。すでに、政策研究型では、化学物質管理、国際3R政策、といったものがありそうだ、ということが例示されたが、それ以外には。
A君:政策研究型は、いつでもいくらでも出てくるのではないですか。先日の新聞にもあった、河川を今度は直線から曲線に戻すといった話。これだって、本当にそれが良いのか、という検討が必要ですし。
B君:土木工事を増やすためだけという解釈もありそうだ。工事のためのエネルギー消費も勿論増えるが。
A君:それによって得られる満足感のようなものをどうやって測定するのか。このあたりが無いと、単なる土建国家日本の維持のためのプロジェクトだと言われても反論ができない。
B君:それでは、地域研究型ではどうだ。
A君:やはり大きいのは、「アジアのある地域、アフリカのある地域における地域の経済発展と環境資源の保全と利用」、といったものなのではないですか。
C先生:日本国内のいくつかの地域でも、部分的には、このような問題はあるが、もう高い学問レベルを目指すというものでも無さそうに思える。
A君:だとすると、アフリカはとりあえず置いておいて、アジアのどこに出かけるか、ということになりますね。
B君:東南アジア、東アジアだと、タイはもう自力で離陸できるだろう。中国は、少なくとも沿岸地域は、とっくに終わった。となると、インドネシア、カンボジア、ベトナム、ミヤンマー、ラオス、ブータン、バングラデシュなどなどといったところになるのでは。
C先生:それに中央アジアの諸国が若干。石油が取れない国、タジキスタンキルギスタンに限る、ということになるが。
A君:島嶼諸国も可能性としては無い訳ではないですね。ツバルかどうかは別としても。
B君:これらの国の環境研究をやるとすると、やはり、語学が問題になるなあ。
C先生:それが最近の一つの問題意識なのだ。環境研究を今後まともにやろうとすると、それには、その地域の語学が必要不可欠。最近の報道によると、小学校で英語教育をやろうという動きが本格化していて、文部科学省がパブリック・コメントを求めていた。ここに何をどのように書き込むかを考えていたのだ。
A君:日本人の英語は、TOEFLなどの結果から見ても、かなりレベルが低い。アジア諸国の中でも、下から2番目だそうだから。
B君:日本の英語は、目と手で学ぶ英語が中心だから。言語というものは、もともとは、音として学ぶもの。子どもが2歳ぐらいでなんとか話をするようになるが、目と手で学習した訳ではないことがその証拠。
C先生:最大の問題は、小学校から英語を勉強したとしても、最終的な語学の到達点が余り高くはならないのではないか、ということなのだ。強い根拠がある訳ではないのだが、英会話学校なるものが厳然として存在しており、そこにいかないとやはり、実用英語にはならない。こんな状況が、小学校から英語を教えることで改善されれば良いのだが、それは期待薄。
A君:それは全く無理ですよ。大体、週に1時間程度でしょ。語学は、「浸かる」必要がある。いつでもどこでも24時間といった状況を作ることが必要で、子どもは自然にそんな状況になるもので、英語がしゃべれるようになる。
B君:そう言っては悪いが、教える先生の側にも大きな問題がありそうだ。ベストな英語教育は、高校時代に耳と発音を鍛えることではないか。
C先生:ところが、高校は、大学受験があるものだから、実践的な英語教育はなかなかできなかった。そんなこともあって、大学受験にヒアリングが導入された。そうすれば、嫌でも教育が行われるので。
A君:小学校の英語教育に反対する人には、国語の力がさらにおろそかにされる、と心配している人が居ますね。「国家の品格」の藤原先生のように。
B君:それにも同意できる。そのような主張をするのは、国語至上主義者だけではないのだ。論理的な思考ができるかどうか、それは、言語能力の一部なのだ。何かを考えているときに、言語を使っているという意識は無いかもしれないが、実際には、言語を使っている。
A君:よく言われることですが、どんな言語でもかまわないが、一つの言語を完全に使えるようにならないと、高級な思考はできない。
B君:多分正しい。バイリンギャルなどはその点が怪しい。
C先生:英語教育に反対している人の思考法も分かるのではあるが、少々視野が狭いような気がしている。議論の対象が英語しかないのだろうか。最近、様々な国に行くが、その国を理解するためには、その国の人々と英語で会話をしていても実は駄目なのではないか、と密かに思い始めた。しかし、その国の言語で会話をするのは不可能だ。それなら、せめて、多少の文字ぐらいは読めるようになるべきなのではないか。
A君:様々な文字があるから。文字だけでも大変。
B君:韓国に行くと、ハングルで目が回る。しかし、少々勉強してみると、その合理性には、感心させられる。
C先生:タイ語にも参った。文字の複雑さでは最難関の一つではないか。アラビア語は、文字数は少ないのだが、同じ文字が置かれる位置によって違った形で書かれるので大変だが。
A君:しかし、文字は文化の根源だから、文字にだけでも少々なじむことが、多様な文化を理解する基本的な条件なのではないですか。
B君:そうか、小学校で、様々な文字を教えるのはどうか、と言いたいのだ。
C先生:そう。英語を教えるのは余り有効ではない。それよりも、世界の文字を教える。いや教えるというよりもそれで遊ぶ。タイ語、アラビア語、韓国語、ロシア語、ヒンディー語ぐらいか。ギリシャ語などもありうるかもしれない。

 引用が長くなってしまったが、環境問題を解決していくためには、環境問題を俯瞰的な立場で理解できるようになるための教育が不可欠。、そのためには、東南アジアの文化を理解する必要があり、その国の言語を使用した会話が不可欠というもの。
 EUでは、参加国の文化と言語を尊重しており、EU本部には各国の言語が扱える通訳が多数働いている(大欧州の時代から)。今後、日本が東南アジアの文化と言語を尊重した共同体を目指すためには、東南アジア各国の言葉を理解できる通訳の養成が不可欠だと思う。環境問題の解決は、日本一国では絶対できない。アジアの国々の協力が不可欠だ。そのためには、多くの通訳を育てる必要性がある。