原子分子程度大きさの世界と巨視的世界の違い

 J.v.ノイマン著「量子力学の数学的基礎」からの引用。

 原子分子程度の大きさの領域におけるあらゆる事象が量子の“不連続的”な法則によって規制されていることが、疑う余地のないまで明らかに確証された。
 さらに、原理的に重要な意義をもつものは、理論物理学の研究において次の思想が一般敵意に受け入れられたことであった:感覚される巨視的な世界を支配している連続の原理は、本質においては不連続な世界の中で、たんに、平均化の過程によって浮かび出るものにすぎない。すなわち人間が、多くの場合一度に莫大な数の素過程の総和を知覚しうるのみであるために、すべてを平均化してしまう大数の法則が個々の過程の真の性質を全くおおいかくしてしまうのである。

 引用した本は、1932年に書かれた量子物理学を数学で記述するために書かれたものである。日本語訳には湯川秀樹が序文をよせている。
 この本を知ったきっかけは、「ハイゼンベルクの顕微鏡~不確定性原理は超えられるか」であった。序文を寄せた湯川秀樹もこの本を熟読したというような記載があり、今でも量子力学を説明する数学書として、読まれているらしい。
 日本語訳が出版されたのは1957年。私が生まれる3年前ということになる。今読むと少し訳が固くて読みづらい部分もあるが、1932年という量子力学がようやく体系化させた頃の熱気は十分に感じられる。
 引用箇所が、量子力学が生まれて明らかになった驚きの部分だと思う。我々が住んでいる世界を我々が観察すると、全てのものが連続して動いているように見える。自動車にしても電車にしても、鳥の動きにしてもぎくしゃくした動きではなく、連続したスムーズな動きをしているように見える。
 しかし、これは、眼で見るという動作の敏感さがそれほど高くないことによる。逆に言い方をすれば、我々の目や耳の感度は、連続的にものが見えたり、聞こえたりするレベルに押さえられて進化してきたということだ。もし、我々の目の感度がもっと敏感だったなら、今以上にストレスを受けることになり、人間の寿命もこれほど長くはならなかったであろう。
 この人間の錯覚は、引用の通り、原子分子程度の領域の情報量が莫大であるために、それを平均化してみていることによる。これを利用した技術は、身近にもいろいろある。例えば、アニメ、やデジタルビデオ。再生されている絵を見る限り連続的な動きに見えるが、1秒間に何コマという静止画が流れている。つまり、1コマと次の1コマの間には、切れ目が存在する。不連続な部分があるのである。
 音にしても、デジタル録音になっている今の世の中では、不連続音の集合体を聞いていることになる。
 それでは、平均化されたものとは、どんな性質を持っているのだろうか?それは多くの場合、波としての性質を持っている。人間は、この波の性質を利用して、情報を得ていることになる。
 原子分子程度を大きさの情報が一度にたくさん感覚器官に届くので、波の振動という性質を利用してそれを感知しているらしい。
 言いかえれば、人間は原子分子程度の小さな情報を個々でとらえることはできないということになる。