EPAの失敗

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 スターリンクは、ヨーロッパの多国籍企業アドベンティス社が開発したBtトウモロコシである。スターリンクのBtタンパク質は、ヒトの胃のような酸性の条件下では他のBtタンパク質に比べて分解されにくいことが判明したため、EPA(環境保護局)ともめることになった。理屈の上では、スターリンク・トウモロコシを食べるとアレルギー反応が起こる可能性が無いわけではないが、実際にアレルギー反応が起こるという証拠はまったくなかった。EPAは判断に窮した。
 結局EPAは、ウシの飼料としてはスターリンクを認可するが、人の食用としては認めないという決定を下した。そしてEPAは、どんな小さな違反も許さないという「許容度ゼロ」の規制を敷いた。すなわち、スターリンクの分子が一個でも存在すれば、その食品が違法に汚染されていることになってしまったのだ。
 農家はスターリンク・トウモロコシとスターリンク以外のトウモロコシを隣り合わせの畑で育てていたから、スターリンク以外のトウモロコシもどうしても汚染されてしまう。たった一本でもスターリンクのトウモロコシが生えていれば、農場全体に分子が広まってしまうのだ。当然ながら、しだいにいろいろな食品からスターリンクの分子が検出されるようになっていった。スターリンク分子を検出する方法はきわめて感度が高い。
 2000年9月末、クラフト・フード社は、タコスの皮がスターリンクで汚染されていたとして商品の回収を行った。そして一週間後にアベンティス社は、スターリンクの種子を買った農家に対して、買い戻し計画を始めた。この「一掃」計画には、一億ドルの費用がかかったと推定されている。
 この大失敗の責任は、行き過ぎた熱意をもって不合理な対応をしたEPAにあると言うしかない。Btトウモロコシの使用を、ある目的(飼料)には認めながら、別の目的(人の食用)には認めず、しかも食品への汚染をまったく許容しないというのはあまりにも不合理である。
 ここでハッキリしてさせておくべきは、「汚染」の定義を「外来の物質が一分子でも存在していること」とするなら、私たちの食物はすべて汚染されているということだ。鉛や、DDTや、細菌の毒や、さまざまな有毒物質によって汚染されているのである。公衆衛生の観点からすれば、問題なのはそれらの物質の濃度であり、その濃度を無視できるレベルから致死的なレベルまでさまざまな値を採りうる。
 また、ある物質を汚染物質とみなすためには、少なくとも明白な健康被害を示す最低限の証拠が当然必要になるということも頭に入れておくべきだろう。スターリンクは、実験室のラットを含めて誰にも害を及ぼしていないのである。この残念なエピソードの中で唯一良かったと言えるのは、EPAはその後、「部分」認可という方法を廃ししたことだろう。それ以降の農作物は、食糧関連のすべての用途に認可されるか、あるいはすべてに認可されないかの、どちらかになった。

 リスクゼロは成り立たないことを証明している例だろう。EPAが認可を決定したのだろうが、そこには、おそらく政治家や市民団体の圧力が働いていたと推測される。ここにも、予防原則を謝って解釈した人たちが関係していた気がする。スターリンクの品種改良は、人工的に行われたのかもしれないが、その後の広まり方は自然選択も関係している。もし、スターリンクが他の品種よりも劣っているのなら、自然淘汰でその種は消えていく運命だったろう。我々は、我々人間用に品種改良された食物しか食べていないことをきちんと理解しておくべきだろう。