カプグラ症候群

 V.S.ラマチャンドラン著「脳のなかの幽霊、ふたたび 見えてきた心のしくみ」からの引用。

 相貎失認はよく知られていますが、これとは別に、カプグラ症候群という非常に稀なシンドロームもあります。私が少し前に出会った患者は、交通事故で頭にけがをして昏睡状態におちいった人でしたが、2,3週間後に昏睡から醒めて、私が診たときは神経学的な異常はまったくありませんでした。しかし彼には深刻な妄想がありました。自分の母親を見て、「先生。この人は私の母そっくりですが、母じゃありません。母のふりをしている偽物です」と言うのです。どうしてこんなことが起こるのでしょうか?もう一度言いますが、この患者(仮にデイヴィットと呼びます)は、ほかの面は何も問題がないのです。知的でしっかりしているし、会話も(少なくともアメリカの基準からすれば)なめらかにできるし、情緒的にもほかは何もおかしくないのです。
 この障害を理解するには、視覚は単純なプロセスではないということを、まず知っておく必要があります。朝、眼をあけるとすぐに何もかも見えるので、ものを見るのは即時にたやすくできると思われがちですが、実は、眼のなかには、上下逆さまのゆがんだ小さな像しかありません。それが網膜の光受容細胞(視細胞)を興奮させ、そのメッセージが視神経を通って後頭部に送られて、30ほどの視覚領野で分析されます。それで初めて、自分の見ているものが何であるかがわかってくるわけです。これは、お母さんかな?ヘビかな?豚かな?こうした識別のプロセスの一部は、紡錘状回と呼ばれる小さな部位でおこなわれるのですが、相貎失認の患者はそこに損傷があります。このようにして像がいったん認識されると、そのメッセージは扁桃体という部位に送られます。扁桃体は、しばしば大脳辺縁系の入口と呼ばれている、情動の中心をなす部位で、ここが働くことによって、いま自分が見ているものが情動的にどれくらい重要であるかが判定できます。あれは、肉食獣だろうか?つかまえれば食べられる獲物だろうか?配偶できる相手だろうか?気配りしなくてはならない、うちの学部長だろうか、それとも重要でない他人だろうか。あるいは、流木のようにまったくどうでもいいものだろうか?あれは、なんなのだろう?
 デイヴィットの場合は、おそらく紡錘状回も視覚領野もまったく正常と思われるので、彼の脳は、目の前にいる女性はお母さんのようだと彼に告げます。しかし彼は、おおざっぱな言いかたをしますと、視覚中枢と情動の中枢である扁桃体をつなぐ「電線」が事故で切れてしまっています。だから母親を見て、「この人はお母さんそっくりだけれども、もしお母さんなら、なぜ自分はこの人に対して何も感じないのだろう?いや、お母さんのはずがない。他人がお母さんのふりをしているんだ」と考えます。奇妙な断絶を考慮すると、デイヴィットの脳にとっては、これが唯一のつじつまのあう解釈なのです。

 普通の人は、眼で、ものの形や色をそのまま認識して、それが脳に送られ思考すると考えているのではないかと思う。実は自分もそう思っていた。しかし、眼で得られている情報は上下逆さまのゆがんだ像でしかないらしい。この像はモノクロで色も着いていない。この上下逆さまのゆがんだモノクロの像が脳に送られ、視覚領野で分析されてはじめて、そのものの形や色が加わる。そして、補正された像は、扁桃体に送られ感情と統合される。これらの作業は瞬時に行われているのだろうか。ここでは、時間的なずれについて述べられていないがどうも多少のタイムラグがあるみたいだ。
 V.S.ラマチャンドランによると、脳科学はルネサンス期に入りつつあるらしい。今まで、わかっていなかったことがだんだんと解りだしている。その最新の内容をわかりやすく解説してくれているのが本書だ。おそらく脳の仕組みの解明は、多くの分野に変革をもたらすことになると思う。いままでに、わかってきたことだけでも、かなりの勘違いをわれわれがしていることに気づかせてくれる。