粒子でもありながら波でもあるもの

 リサ・ランドール著「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」からの引用。

 粒子でありながら波でもあるものの存在に困惑する人もいるかもしれないが、たしかにそれはもっともだ。ド・ブロイが最初にこの波動説を提唱したときにも、それがどういう意味かをわかった人は誰もいなかった。そこで驚くべき解釈を示したのが、マックス・ボルンである。波は位置の関数であり、その絶対値の二乗が空間の任意の場所で粒子を見つけられる確率となる、とボルンは提唱し、これを「波動関数」と名づけた。粒子はその存在を特定できるものではなく、確率の観点でしか記述できない、とボルンは見抜いた。これは従来の考え方からの大きな飛躍だった。つまり、粒子の厳密な位置は突きとめることができない。粒子がある場所で見つかる「確率」を特定できるだけなのだ。
 しかし、量子力学的な波が確率しか記述しないとはいえ、量子力学はこの波が時間とともにどう変化するかを正確に予言する。ある時点での値がすべてわかれば、そのあとの時点での値もすべて特定できる。シュレーディンガーが発見した波動方程式は、量子力学的な粒子と結びついた波の変化を示すものである。
 だが、その粒子が見つかる確率とはどういうことなのか?これはわかりやすい概念ではない。結局のところ、粒子の断片のようなものが存在するわけではないのだ。粒子が波でしか記述できないというのは、量子力学の最も不思議な側面の一つだった(それはある意味では現在も変わらない)。なにしろ粒子はしばしば波のようにではなく、ビリヤードの玉のようにふるまうとされている。粒子という解釈と波という解釈は、どう見ても両立しないのではないか。
 この明らかなパラドックスを解決する鍵は、粒子のもつ波のような性質は一つの粒子からでは検出できないというところにある。たとえば、ある1個の電子を検出するとき、その電子はある明確な場所に存在している。電子の波動全体を図に描くためには、個々の電子がいくつも必要になるし、さもなければ同じ実験を何度も繰り返さなくてはならない。それぞれの電子が波に結びつけられるとしても、一個の電子だけでは一つの数字しか測定できない。しかし、たくさんの数の電子をそろえられれば、それぞれの場所での電子の存在が量子力学によって電子に帰せられる確率波に比例することがわかるだろう。
 個々の電子の波動関数は、同じ波動関数をもつ多数の電子がどうふるまうかを教えてくれる。ある一個の電子が見つかる場所は一つしかない。しかし多数の電子があれば、それらのいる場所が波のような分布となって現れる。波動関数は、電子が最終的に存在する確率を示すものである。(p.188-189)

 電子や光子が波でもあり、粒子でもあるという概念は、直感的に非常にわかりにくかった。しかし、リサが言うように、波という性質はもともと多くのなにかの集合体がない限り現れない。海の波であれば、海水がなければその性質は見出せない。音の場合は、空気が集合体となる。従って、電子や光子などの粒子の集団があって初めて、波としての性質が見られるという考え方は、直感的に非常に受け入れやすい考え方だと思う。
 波動方程式や波動関数を数学的に見れば、直ぐわかることなのだろうが、数学があまり得意ではない自分にとって、この説明は非常にわかりやすかった。