経済開発の梯子

 ジェフリー・サックス著「貧困の終焉―2025年までに世界を変える」から引用。

 世界の豊かな地域と貧しい地域のあいだに想像しがたいギャップがあり、そのあいだにさまざまな段階があることがわかる。発展の過程で、科学とテクノロジーが重要な役割を果たしていることもうかがい知れる。さらに、発展のプロセスは零細企業から軽工業と都市化へ、それからハイテク・サービス業への移行であることを見てとれる。マラウィでは人口の84パーセントが農業地帯に住んでいる。バングラディシュでは76パーセント、インドでは72パーセント、中国では61パーセントである。発展の梯子の頂点に位置するアメリカ合衆国では、わずか20パーセントだ。マラウィではサービス業に従事するのは雇用の25パーセントにすぎないが、アメリカでは75パーセントにのぼる。
 経済発展の梯子にたとえ、その段を上がることが経済的な幸福につながると考えるなら、世界中でおよそ10億人(全人類の6分の1)が現在、マラウィの人びとと同じような状況にあるといえる。病気と飢え、そして極度の貧困のために開発の梯子のいちばん下の段にさえ足がかけられない。この人たちは「極度の貧困」であり、地球上で「最も貧しい」。すべて開発途上国の人びとだ(豊かな国にも貧困は存在するが、それは極度の貧困ではない)。もちろん、この10億人が今日死ぬわけではない。だが、彼らは日々、生き残るために闘っている。深刻な旱魃や洪水、または病気の猛威に襲われれば、あるいは彼らの換金作物を扱う世界市場の値が崩れれば、ひどい苦しみが待っていて、ときには死ぬことさえある。一日の現金収入が数ペニーになることさえあるのだ。
 開発の梯子を数段昇ことは、低所得国の人びとの当面の目標である。現在、ざっと15億人がバングラディシュの若い女性と同じような問題に直面している。これらの人びとは「貧困」のカテゴリーに入る。ぎりぎりで生存可能という線よりもやや上にいて、生命の危険を日々感じるとまではいかないが、それでも都会や田舎で生計を立てるために苦闘を余儀なくされている。死が戸口に立っているわけではないにせよ、長年におよぶ財政難と、安全な飲料水や機能的なトイレといった基本的な施設の不備に悩まされている。極度の貧困(およそ10億人)と貧困(されに15億人)を合計すると全人類の25パーセントにのぼる。
 梯子の数段上にいる25億人(インドのIT業界で働く人びとを含む)は中所得国に属する。世帯の所得も中程度だが、豊かな国の規準によるミドルクラスとはけっして同じではない。彼らの年収は数千ドルというところだ。ほとんどは都市に住んでいる。住居はまあまあ快適で、室内のトイレもあるだろう。スクーターを買うくらいはできるし、そのうち自動車だって買えるかもしれない。みっともなくない服装ができ、子供たちは学校に通える。栄養もほどほどで、なかには豊かな社会のマイナス面を踏襲して不健康なジャンク・フードにはまっている者さえいる。
 梯子のもっと上の段にいるのは、全人類のざっと6分の1にあたる残りの10億人で、これは高所得国の人びとである。豊かな国に住む人びとだが、いまや中所得の国に住む一部の金持ちがここに加わるようになり、その数はしだいに増えてきている。上海、サンパウロメキシコシティといった都市に住む高所得者が1千万人ほどいる。北京であったヤング・エグゼクティブも21世紀の豊かさを享受できる幸運な人びと(全人類の6分の1)の仲間である。

 全人類で10億人が明日の生活にも困る状態にある。サックスに言わせると「経済開発の梯子のいちばん下の段にも足がかけられない」人びとだ。マラウィはそんな「極度の貧困」に苦しむ南アフリカの国らしい。正直言ってこの本を読むまでマラウィという国の名さえ知らなかった。
マラウィは、エイズが蔓延し、働き手である20代から40代の人びとがほとんどいない状況になっているという。負のスパイラルに陥っている国なのだ。
 サックスは、この本で、「極度の貧困」に苦しむ人びとを2025年までに救うことができると言っている。まだ読み始めたばかりなので詳細は書けないが、経済発展の梯子に足をかけさせることができれば、自ら「極度の貧困」から脱却できるようになると述べている。そして、それをすることが我々世代の挑戦であるとも述べている。