消極的優生学

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」上からの抜粋。

 ゴールトンが、遺伝的に優れた人々に子どもをもつように奨励する「積極的優生学」を説いたのに対し、アメリカの優生運動では、遺伝的に劣る人々を生殖から遠ざける「消極的優生学」に関心が向けられた。どちらも、人間の遺伝的改良という目的は基本的に同じだったが、その方法はまるで違っていた。
 アメリカでは、優れた遺伝子を増やすのではなく、悪い遺伝子を取り除くことが中心となった。この路線は「変質」と「知的障害」に関して多大な影響を及ぼすことになった大規模な家系調査に端を発していた。
 1875年、リチャード・ダグデイルは、ニューヨーク州北部のジューク家に関する報告書を発表した。ダグデイルによれば、この一族には殺人者、アルコール中毒者、強姦者といった人間ばかりが何代も続いたのだという。ニューヨーク州の彼らの故郷近辺では、「ジューク」という名前は非難の言葉となっていた。(中略)
 ダヴェンポートは、さまざまな形質をもつ家系にメンデル式の分析を当てはめた。当初それは、正しい遺伝型が確認されていた単純な形質(色素欠乏症〈劣勢〉やハンチントン舞踏病〈優生〉など多数ある)に限られていた。しかしそれがうまくいくと、彼は人間の行動に関する遺伝学の研究に突き進んだ。事実上、あらゆることが研究対象となった。そして、系図と、その家系の歴史に関する情報(たとえば特別な性質が現れたと疑われる人物がいたかどうか)だけから、その根拠となる遺伝学的な結論が引き出されていった。
 1911年に出版された著書「優生学に関する遺伝」をざっとめくってみただけでも、ダヴェンポートの計画がいかに広範なものだったかがわかる。彼は、音楽や文学の才能をもつ家系や、「機械的創意、とくに造船にかかわる技能をもつ家系」の系図を示した(ダヴェンポートは明らかに、造船遺伝子が渡されていく道筋を追跡したつもりだった)。(中略)
 こういう研究には何の意味もなかった。今日の私たちは、ここに述べられているような特徴はどれも環境要因に影響されやすいことを知っている。ダヴェンポートはゴールトンと同じく、生まれは間違いなく育ちに勝ると決め込んでいたのだ。

 この時代、当然のことながら、遺伝子がどういうもので、どういうかたちで遺伝子が伝わっていくのか、また、遺伝子はどこに内在しているのかといった基本的な知識が欠けた状態だった。したがって、どういう情報が親から子に伝わるのかも当然推測の域を出ていなかった。
 ここで挙げられているダヴェンポートの考え方は、消極的優生学が発達したアメリカで確実に浸透していったようだ。「変質」と「知的障害」に関して家系に問題があり、それを根絶する必要があるという危険な発想が一般的になっていったと思われる。