遺伝子の発見

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 遺伝のしくみを正しく捉えた人物こそグレゴール・メンデルである。(中略)
 1856年ごろ、メンデルは修道院長ナップの提案により遺伝に関する実験を始める。そこで彼が研究材料に選んだのが、修道院の庭の担当区域で育てていたエンドウの形質だった。1865年、メンデルはその結果にもとづいて地元の自然協会で二度の講演を行い、翌年、協会の雑誌にそれを発表した。その研究はたいへんな力作だった。実験はよく計画され、労を惜しまず遂行され、分析も巧みで洞察に満ちていた。
 メンデルがここで大きな一歩を踏み出すにあたっては、物理学を学んだことが役に立ったようである。なぜなら、当時の他の生物学とは異なり、メンデルは問題に対して定量的なアプローチを取ったからである。赤い花と白い花を掛け合わせると白い花も赤い花もできることに気づくだけでなく、彼はその数を数え、赤と白の比が重要かもしれないと考えたのだ。実際、まさにそこが重要だったのである。
 メンデルは論文を著名な学者に送ったが、学会からはまったく無視された。(中略)当時の科学者にはその意味を理解できなかったろう。彼の慎重な実験と洗練された定量分析の組み合わせは、時代をはるかに先駆けていたのである。1900年まで科学界が彼に追いつけなかったのも、とくに驚くべきことではないかもしれない。メンデルの業績の再発見は、同じ問題に興味をもった三人の植物遺伝学者によってなされ、生物学に革命を起こした。
 メンデルは、特定の因子、後に“遺伝子”と呼ばれることになるものが、親から子へ渡されていくことに気づいた。そして、その因子はふたつ一組になっていて、子はそれを双方の親から一つずつ受けとることを突き止めたのだった。
 エンドウがまったく異なるふたつの色、緑色と黄色になることに気づいたメンデルは、色を決める遺伝子が二種類あるに違いないと考えた。仮に、緑色の遺伝子をG、黄色の遺伝子をYとしよう。エンドウが緑色になるためには、Gという遺伝子をふたつ持たなければならない。この場合、エンドウの色遺伝子はGGであると言われる。つまり、このエンドウはどちらの親からも色遺伝子Gを受け取ったわけだ。しかし黄色のエンドウは、YYとYGの組み合わせからもできる。黄色のエンドウになるには、Yがひとつあれば十分なのだ。YがGを打ち負かすのである。YGの場合、YがGよりも優位に働くから、Yを“優性”と呼び、弱いほうの色遺伝子Gを“劣性”と呼ぶ。
 エンドウの親もふたつの色遺伝子をもっているが、子に渡されるのはそのうちのひとつだけである。もう一つは、もう一方の親から渡される。植物では、花粉に精子が含まれる−雄から次の世代に引き渡すのはこれである。そして各精子には、色遺伝子がひとつだけ含まれている。YGの遺伝子をもつ親は、YかGどちらかの遺伝子を含む精子を作る。メンデルは、そのプロセスはランダムに起こることを発見した。従って、精子の50%はY遺伝子をもち、50%はG遺伝子をもつことになる。

 メンデルは、21歳の時にブルノのアウグスティノ修道院に入るが、神経質過ぎて司祭職には向かなかったようだ。その後教師を目指すが、全教科を教えるために必要な試験に二度失敗する。そのため、学会や著名な学者からの評価は低かったらしい。引用部分にもあるように、メンデルの実験は定量的なアプローチで行われており、当時の学者にはその先見性を理解でき無かったのだろう。メンデルの功績は、死後16年経ってようやく認められることになる。