「寺内貫太郎一家」の舞台、谷中

 「寺内石材店」通称「石貫」の主人寺内貫太郎とその家族、そして使用人が繰り広げる物語、「寺内貫太郎一家」は、谷中を舞台として描かれました。作者の向田邦子さんは、身長百八十センチ、体重百一キロの巨体、石みたいに頑固で一本気な癇癪もちの主人公、貫太郎を自分の父親とだぶらせて描いたといわれています。また妻の里子は、やさしくて、よく気がつき、それでいてシンの強い、昭和初期までたくさんいた日本の女性、頑固なお父さんに虐げられているふりをして、その実のんびりしたたかに生きてきた女性として描かれています。このドラマは、昭和49年に放映され、昭和50年に小説として出版されました。昭和初期に育った作者がそのころの理想の家族を描く場所として谷中を選んだのは、その町がその時代の面影を残していたからではないでしょうか。
谷中墓地

「谷中墓地には、お墓が幾つあるか当ててごらん」
きん(姑)に言われて、ミヨ子(手伝い)は首をひねった。考えたが見当もつかない。
「六千五百もあるのよ。偉い人のお墓もいっぱいあるの。福地桜痴広津柳浪上田敏
 ミヨ子には馴染みのない名前だが、明治、大正の偉い小説家や詩人だという。おばあちゃんのことだから、どうせ誰かの受け売りに決まっている。
向田邦子著「寺内貫太郎一家」(新潮文庫

 谷中墓地は、面積が約三万坪、不忍池がすっぽり入るくらいの広さがあります。約七千の墓碑があり、朝倉文男(彫刻家)、神谷伝兵衛(神谷バー電気ブラン創始者)、横山大観(日本画家)、鳩山一郎(政治家)、長谷川一夫(俳優)など著名人が眠っています。この場所は、もともと天王寺(昔の感応寺)の境内で、一部は寛永寺の境内だったところもあります。明治初期、明治政府が、この二つの寺からこの場所を献上させ、公営墓地にしました。
 谷中墓地のメインストリートにはソメイヨシノが並んでおり、春になると鮮やかな花をつけます。昔は、墓地の中にあることもあり、隠れた桜の名所だったそうです。しかし、最近では観光客も増え、上野のお山へ数え切れないほどの人手がでるため、人ごみを避け、谷中墓地で花見をする人も増えたそうです。また、東京ではあまり見られなくなったふきのとうや木蓮などをいまだに見ることが出来る場所でもあります。「谷中自然博物館」館長の野澤さんが、こうした貴重な谷中の自然をインターネットのホームページへ掲載されています。野澤さんは、「最近谷中の観光客が増え、それをあてに商売する人が増えたことで、鎌倉のように谷中が観光地化するのではないか」と心配なさっておられました。人知れず残っている自然は、やはり誰かが見守っていなければ滅びてしまうもののようです。