80分しか持たない記憶

 小川洋子著「博士の愛した数式 (新潮文庫)」の中で、数学者である博士の記憶は、80分しか持たない。80分を過ぎると、80分前のことをすっかり忘れてしまうのだ。家政婦のわたしが、買い物に出て、80分直ぐ手から戻ると、博士は、初対面の人に会ったときに行う行動をする。それを何度も繰り返さないために、わたしは80分以内に買い物を済ませなければならない。
 実は、ぴったり80分ではないのだが、これと同じようなことを経験したことがある。30歳の時に、無菌性髄膜炎にかかり、1ヶ月ほど意識を失った経験がある。その後、半年ぐらいの間、記憶することができない時期があった。
 最初は、記憶ができないという自覚がなかった。その時起こったことを当然覚えていると思っていた。それに、自分がとった行動全てが記憶できないわけではなく、リハビリで行った内容や看護婦さんの癖など何かしら興味を持ったことは、どうにか記憶していた。
 記憶が失われているということに気づいたのは、意識がもどって、2ヶ月ぐらい過ぎた正月のときだった。正月休みで、一時退院し、家でラクビーの試合を何気なく見ていたときだった。ラクビーの熱狂的なファンでもないので、当然出場している選手の名前など知らなかった。しかし、途中交代で外人選手が入ってくるぐらいのことはわかってたはずだった。ところが、試合をずっと見ていたにもかかわず、途中交代の選手の名前が思え出せない。しかも、いつその選手が入ってきたかも思い出せなかった。
 ふと、不安になり、近くにあった本を読んでみた。すると、1ページを読み、次のページに入った頃に、1ページ目の内容を思い出そうとしても、まったく思い出せない。あらためて、1ページ目を読むと全く読んだことのない文章がそこにあった。
 こうして、記憶力が非常に落ちていることを悟った。それからは、生活をするために、メモをとる習慣を身につけるしかなかった。退院後、会社にすぐ復帰したのだが、最初の内は、失敗の連続だった。記憶力が落ちているという自覚はあったが、それをコントロールすることができないで、失敗を繰り返したのだ。上司や仲間に記憶力が落ちていると説明しても、冗談だと思われ信じてもらえなかった。
 幸い、メモをとる習慣の助けもあり、一年ほどで記憶力はだいぶ戻った。しかし、今でも油断すると直ぐに忘れてしまう場合がある。歳を重ねるたびに記憶力は落ちていくという話しを良く聞くが、この経験がそれに重なり、他の人より記録力低下がひどいようにも感じられる。
 それでも、30歳で亡くなることなく、十数年間生き続けているのだから、記憶力が弱いぐらい何でもないと思える。
 こうした経験が、この本をより一層興味深いものにしているような気がする。