宗教は、内集団/外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルである

 リチャード・ドーキンス神は妄想である―宗教との決別」からの引用。

 宗教は疑いの余地なく、不和を生みだす力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。しかし、宗教集団あるいは宗派間の戦争や反目が、神学的な意見の不一致についてのものであることは現実にはほとんどないということが、しばしば、そして正しくも言われている。アルスターのプロテスタント準軍事組織に属する男が一人のカトリック教徒を殺したとき、彼は「これでもくらえ、化体論者の、マリア崇拝の、抹香臭い畜生め!」というようなことを呟いていたわけではない。彼は、世代を超えて持続する確執の過程で、別のカトリック教徒によって殺された別のプロテスタントの死の仇を討とうとしていた可能性のほうがはるかに高い。宗教は、内集団/外集団の対立を巡る提起と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。(p.378)

 宗派がもとで不和が生じることはあまりないとドーキンスは言っている。それではどういうときに宗教が不和を生み出すのかというと、宗教がラベルとなって、誰を抑圧し、誰に復讐するかに使われたときだという。

 北アイルランドにおける紛争は政治的なものである。そこには一方の集団による他方の集団の経済的・政治的抑圧が存在し、それは数世紀以前にまでさかのぼる。そこには現実に不満と不正が存在し、それらは宗教とほとんど関係がないように思われる。だたひとつ(これは重要であるが、ひろく見過ごされてきた)宗教がなければ、誰を抑圧し、誰に復讐するのかを判断するラベルがなくなってしまうだろうということを除いて。そして、北アイルランドにおける本当の問題は、このラベルが何世代にもわたって受けつがれてきたということである。両親も、祖父母も、曾曾祖父母もカトリックの学校に通ったカトリック教徒は、自分の子供をカトリックの学校に送り込む。両親も、祖父母も、曾曾祖父母もプロテスタントの学校に通ったプロテスタントは、自分の子供をプロテスタントの学校に送り込む。この二組の人間たちは、同じ肌をもち、同じ言語をしゃべり、同じことをして楽しむが、まるで別の種に属しているかのようであり、両者の歴史的な分裂は根深い。そして宗教と、宗教的に分離された教育がなければ、そうした分裂は絶対に存在しなかっただろう。コソボからパレスティナまで、イラクからスーダンまで、アルスターからインド亜大陸まで、対立する集団間の手に負えない反目と暴力が見られる世界のどの地域でもいい、注意深く見てほしい。内集団や外集団のしるしとして用いられるラベルのうち、宗教がその大勢を占めていることに、たぶんあなたは気づくだろう。かならずそうだとは言えないが、その可能性は高い。(p.379)

 ドーキンスが言うように、同じ民族であり、同じ肌を持った人間同士が対立するためには、それなりの理由が必要になる。他方の集団がもう片方の集団を抑圧するという現象は、どんな場合でも宗教がないところでもありうる。ただし、それが延々と数世紀も続くものになるには、それなりの土台がなければ続かないだろう。そうした土台を宗教は作り上げてしまう。ここに、宗教の問題点があるとドーキンスは指摘している。
 では、どうやって、宗教がその土台を築くのであろう。ドーキンスはその方法が少なくとも3つあるという。

 人間には宗教がない場合でさえ、内集団へは忠義を尽くし外集団とは反目しあう強い傾向があることを、私は否定しない。サッカーのライヴァル・チームのファン同士は、そうした現象の規模の小さな例である。サッカーのサポーターですら、グラスゴー・レンジャースとグラスゴー・ケルティックの場合のように、ときには宗教的な線に沿って分離される。言語(ベルギーにおけるように)、人種、部族(とくにアフリカで)も、重要な分離の標章になりうる。しかし、宗教は少なくとも以下の三つの方法で被害を増幅し、悪化させる。

  • 子供にラベルを貼る。子供たちは幼い年齢のうちから、そしてまちがいなく、宗教について自分なりの判断を下すにはあまりにも早すぎる年齢から、「カトリック教徒の子供」あるいは「プロテスタントの子供」等々と呼ばれる。
  • 学校の分離。またしても非常に幼い年齢のうちから、宗教上の内集団を成すメンバーと一緒に、他の宗教に忠実な家庭の子供とは分離されて、教育を受ける。北アイルランドにおける騒動は、こうした学校の分離が廃止されれば、一世代のうちに消滅するだろうと言っても過言ではない。
  • 異教徒との結婚のタブー。これは、反目しあう集団間の混血を防げることによって、受けつがれる反目と確執を永続させる。集団間の結婚がもし許されれば、自然に敵意は和らげられていくだろう。

p.380

 最近の新興宗教を見ても、この3つは少なくとも兼ね備えていると思える。特に、「子どもにラベルを貼る」と「学校の分離」は問題だと思う。まだ、自分で正確な判断が出来ることを身につけていない純粋な子どもに
親や先生がその宗教が当たりかのごとく教えてしまうのはどうかと思う。
 多くの人がグローバル化をうったえているこの時代に、日本においても、内集団と外集団を分離する宗教的な考え方が他方で広まりつつある。それは、格差が助長され、恩恵を受けられる人とそうでない人にわかれ、そうでない人の方が圧倒的に多いためだと思う。
 しかし、宗教にすがることが本当の解決策になるとは私は思えない。生き方のスタンスをどうするかは1人ひとりがそれぞれ考えるべきことで、他人に助言をもとめることは良いと思うが、最終的には自分で判断し、他人に頼ってはいけないと思う。