宗教は心理的性向の多岐にわたる、いくつもの副産物

 リチャード・ドーキンス神は妄想である―宗教との決別」からの引用。

 自然淘汰は、親や部族の長老のいうことは何であれ信じるという傾向をもつ脳をつくりあげる。そのような、「疑いを持たず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウィルスに感染しやすくなる。ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの潜むリンポポ川に足を踏み入れるな」は正しい忠告だが、「満月の夜には仔ヒツジを生け贄にしなければならない。そうしなければ雨が降らないだろう」はせいぜいよくて、時間とヒツジの無駄遣いにしかならないという、この二つの違いがわからない者が出てくるのだ。彼にとって、どちらの忠告も同じように信用できそうに聞こえる。両方とも尊敬すべき情報源からのもので、その指示を尊重し、服従することを要求するような厳粛な真剣さをもって発せられるからだ。同じことが、世界に関する、宇宙に関する、道徳に関する、そして人間の本性に関する命題についても言える。そして、その子どもが成長して自分の子をもったとき、当然のごとくその一切合切(ナンセンスなものも意味あるものも同じように)を同じような感染力のある厳粛なやり方で自分の子に伝える可能性は非常に高い。
 このモデルに従えば、地理的に異なる地域では異なった内容の、恣意的でいかなる事実の根拠ももたない信仰が、堆肥が作物に有効であるといった伝統的な知恵が地域で役立てられるために伝承されるのと同じ確信をもって、代々伝えられていくと予測すべきことになる。さらにまた、迷信やその他の事実にもとづかない信仰が、遺伝子の機会的浮動、あるいはある種のダーウィン流の淘汰に類似の過程によって地域的に進化し、最終的に共通の祖先からの顕著な分岐のパターンを示すだろうということも、予測されるはずである。言語というものは、十分な時間が与えられれば地理的な隔離によって、共通祖語からしだいに離れていく。同じことは、世代から世代へと伝えわたされる恣意的な信仰や禁止命令にもあてはまるように思われる。

 ドーキンスは、宗教が自然淘汰の過程で必然的に生じた副産物だといっている。親や村の長の意見に従うことは、その村で生きていくためにはどうしても必要な条件だったと。しかし、伝統的な知恵を代々伝えていける反面、それは「疑いをもたず服従する」という行動も生んでしまった。
 特に、小さな子どもの頃に親からこうした教育を受けると、疑うことを知らない子どもはそういうものだと信じてしまい、一生、その信仰を信じてしまう。
 なんか、江戸時代を想像してしまう話しに聞こえるが、まだメディアやインターネットが発達していない地域では多いにありえそうな話しだ。また、アメリカの社会のように、そういう時代があり、その後延々とその信仰が伝えられている社会も存在している。
 これだけ科学が発展してきた時代において、神を心の底から信じている人がどのくらいいるのだろうか。発展途上国では仕方ないとしても、先進国の間にこれほど宗教が蔓延っている現状を踏まえると、道徳心もしくは正義感から神を信じているという態度をとっている人が多いのではないだろうか。
 ドーキンスは、これらの道徳心や正義感を維持するのに、神は必要ないこともこの本の中で伝えている。
 ガについては、昨日のブログを参照下さい。