沈黙の春

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 1962年10月、レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が「ニューヨーカー」誌に連載され、一大センセーションを巻き起こした。彼女の主張は、農薬使用が環境に毒をまき散らし、私たちの食物さえも汚染しているという恐ろしいものだった。当時の私はジョン・F・ケネディ大統領の科学諮問委員会(PSAC)の顧問を務めていた。私の任務は軍の生物兵器計画を調査することだったから、カーソンの懸念に対し政府としてどう対応すべきかを検討するための小委員会に参加するよう求められたとき、ちょっと目先を変えてみるのもよかろうと快く応じることにした。
 カーソンは自ら証拠となる事実について述べたが、私はその注意深い説明と慎重な取り組み方とに感銘を受けた。またカーソンという人物は、後に大手農薬会社が描いてみせたような、感情的な環境論者では決してなかった。(中略)
 それから一年後、私はカーソンの描く世界をじかに体験することになった。当時私は、先述のPSACのなかでも、国産綿花に及ぼす草食性昆虫、とくにワタミハナゾウムシの脅威について調べる委員会を率いていた。ミシシッピーデルタやテキサス西部、カルフォルニアのセントラルヴァレーなどを訪れてみれば、綿花生産者がいかに化学農薬に頼っているかがよくわかる。テキサス州ブラウンズヴィル近郊にある昆虫学研究所に向かう途中のこと、私たちの車に上空から農薬がばらまかれたりもした。こうした地域の看板には、おなじみの髭剃りクリームの広告ではなく、最新最強の殺虫剤を売り込む宣伝文句が書かれていた。綿花の国では、有毒化学物質が人々の暮らしに大きく関わっているようだった。
 農薬の脅威に対するカーソンの評価がどれだけ正確だったかは別として、綿花にたかる六本脚の敵に立ち向かうには、国の広大な地域を薬漬けにするよりもましな方法があるに違いなかった。(中略)
 あの当時の私は、害虫への抵抗力をもつ植物を作るなど考えもしなかった。そんな夢のような解決策が実現できるとは思えなかったのだ。しかし今日ではまさにその方策こそが、有害な化学物質への依存を減らしつつ、害虫を駆除する方法になっているのである。
 遺伝子工学は、害虫の耐性をもつ作物を作り出した。農薬の使用が減少したことにより、詩人環境にも大きな恩恵がもたらされた。ところが皮肉にも、いわゆる遺伝子組み換え(GM)作物の導入にもっとも強硬に反対したのは、環境保護団体だったのである。

 レイチェル・カーソンの「沈黙の春」は読んだことがないのだが、最近読んでみようかと思うようになった。なぜかというと、有識者の意見を聞いているうちに、カーソンの主張はきちんと調査されたうえでの、主張だったように感じられるからである。
 1960年代当時アメリカでは、農薬を惜しげもなく空から散布していた可能性がある。使用量など考えず、手間暇をかけずに効果が出る空中散布が一般的だったのだろう。残念ながら、著者は、有害な化学物質という表現を使用しているが、量が多ければどんなものでも有害になるのだから、この表現は誤解を生む可能性がある。文章の中身をしっかり解釈すれば、農薬の使用量が適性では無かったことが原因であることは明白なのだが、もう少し言葉を正確に使用して欲しかった。
 それにしても、環境保護団体と遺伝子組み換え作物の研究者たちが同じカーソンの「沈黙の春」からスタートしている点は、皮肉にもおもしろい。また、農薬の適性使用がなされていなかったことに対して、アメリカでは問題となったことが、遺伝子組み換え作物を農家が導入したきっかけにもなったと思われる。
 日本の場合、アメリカとは農家の事情が異なっている。アメリカほど大量の農薬散布は行われてこなかった。その分だけ、遺伝子組み換え作物に対する関心が低いのかもしれない。