遺伝学史上最大の汚点

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 ヒトラーの「我が闘争」は、似非科学にもとづいた人種差別主義者の大言壮語であるれかえっている。それは、ドイツ民族は優秀だという古くからの主張と、アメリカの優生学運動の醜悪な一面とから生まれたものだった。(中略)
 1933年に権力を握ってまもなく、ナチスは包括的な断種法(「遺伝性疾患子孫防止法」)を成立させた。それは明らかにアメリカの法律を手本とするものだった(ラフリンは誇らしげにこの法を翻訳して出版した)。そして三年間に断種手術を受けた者は22万5千人に達した。
(中略)
 1935年のニュルンベルク党大会では、「ドイツ人の血統と名誉を保護する法」が公布された。これはドイツ人とユダヤ人との結婚を禁じ、されには「ユダヤ人と、ドイツ市民またはその血縁者との、婚姻外の性交渉」までも禁じた。(中略)
 悲惨だったのは、ハリー・ラフリンが熱心に画策したアメリカのジョンソン・リード移民法にも抜け道がなかったことだった。ナチスの迫害から逃れようとしていた多くのユダヤ人にとって、本来ならばアメリカはまず第一に目的地に選ばれる国のはずだったが、人種差別的で制限された移民政策のせいで、多くの人々が追い返されてしまった。ラフリンの断種法がヒトラーの恐ろしい計画の模範になったばかりか、彼が移民法にまで影響力をふるった結果、事実上アメリカはドイツのユダヤ人の運命をナチスの手に渡すことになったのである。
 第二次大戦が始まった1939年、ナチスは「安楽死」を導入した。断種は手間がかかりすぎるからである。これに、なぜ食糧を無駄にしなければならないのか、というわけだ。保護施設収容者は、「無駄飯ぐらい」と言われた。精神病院には調査票が送られ、「生きる価値がない」と思われる患者に十字の印をつけるように指示された。7万5千人が印をつけられ、大量殺人技術としてガス室が開発された。
 その後ナチスは、「生きる価値がない」とする対象を少数民族全体まで拡張し、その中にはロマ(ジプシー)やユダヤ人が含まれていた。のちに”ホロコースト”と呼ばれるものは、ナチス優性思想の頂点だったのである。
 こうして、優生学は人類にとって悲劇であることが証明された。また優生学は、遺伝学という新しい科学にとっては災難であり、消すことのできない汚点となった。

 ヒトラーが目指した社会は、アメリカの優性思想や断種法を模範としていた。しかも、アメリカのジョンソン・リード移民法のおかげて、迫害を受けた人々の行き場所を奪った。Wikipediaによるとこの移民法は、戦後1965年まで続いていたとある。18世紀後半に産声を上げた優生学は、19世紀になって最大の悲劇を生むことになる。優生学の生みの親は、ダーウィンの従兄弟のゴールトンだが、それを恐ろしい思想に導いていったのは実はアメリカだった。
 イラクの戦争にしても、テロにしても、アメリカの政策がもとで起こった出来事は、無数にある。第二次大戦もまたアメリカの政策がもとで悲劇を生んだ。