断種法と科学的人種差別

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 全般として見れば、不適切な人間が子どもを作らないようにするという、消極的優生学が盛んになったことのほうが悲惨な結果につながった。1899年、その分岐点となる出来事が起こった。クローソンという若い男が、インディアナ州の刑務所の医師ハリー・シャープの診察を受けた。クローソンの問題−当時の医療では問題とされたもの−は、自慰衝動だった。彼は12歳のときからそればかり行ってきたと語っている。自慰は変質の一般的な兆候とされていたのだ。
 シャープは従来の考え方にもとづき(今の私たちから見ればおかしな考えに思えるが)、クローソンの知的欠陥(学校の成績がさっぱりだった)は、その衝動のせいだと考えた。では、それを解決するにはどうすればいいだろうか?シャープは当時の最新技術であった精管切除を行い、それによってクローソンを「治した」と主張した。そしてシャープ自身、この手術を行いたいという、抑えがたい欲求にとりつかれたのである。
 シャープは、クローソンが治癒したという事実により(ただしそれを確認するものはシャープ自身の報告しかないのだが)、クローソンのような人間、すなわちあらゆる「変質者」に対して、この治療法が有効だという証拠になると売り込んだ。
 断種を支持する理由はふたつあった。ひとつは、変質行為を防げるかもしれないことである。刑務所であれ精神病院であれ、監禁する必要のある者たちを、自由にしておいても「安全」な存在にすることにより、少なくとも多額の経費を節約することができる。
 ふたつめは、不良な(変質した)遺伝子を次世代に伝えるのを防げることである。シャープは、断種こそ優生上の危機に対する申し分ない解決策であると考えた。
 1907年にはインディアナ州で最初の強制段手法が制定され、「犯罪者、白痴、強姦者、痴愚」と確認された者の断種が認められた。最終的にはアメリカの三十の州で同様の法が制定され、1941年までに、アメリカ全体で約六万人が断種手術を受けている。これらの法により、子をもてる、もてないを、事実上州政府が決めることになったのである。
(中略)
 優生学そのものに人種差別が含まれているわけではない。優生学が奨励する優れた遺伝子は、原理的にどんな民族にも存在しうる。けれども、優生学の熱心な実践者の多くは人種差別主義者でもあり、その人種差別的考えを「科学的」に正当化するために優生学を利用した。
(中略)
 当時「白人優越主義者」という言葉はまだなかったが、二十世紀初頭のアメリカにはそういう考えをもつ人たちが大勢いた。
 1916年には、裕福なニューヨーク市民で、ダヴェンポートやローズヴェルトと交友のあったマディソン・グランドが「偉大な人種の消滅」という本を出版し、北方人種こそ他のヨーロッパ民族を含めた世界中のどの民族よりも優れていると主張した。
(中略)
 グランドの本は、大きな影響力をもつベストセラーだったのである。後にはドイツ語にも翻訳されてナチスにも影響を与えたが、それも驚くにあたるまい。グラントにとって、ヒトラーから手紙をもらったことは悦ばしい出来事だった。その手紙には、この本を自分のバイブルにすると書かれていたという。
(中略)
 そして、アメリカではヨーロッパ南部および他の地域からの移民を厳しく制限するジョンソン・リード移民法が1924年に制定される。

 メンデルの遺伝子の発見からスタートして、優生学の誕生消極的優生学と続き、今回の断種法と科学的人種差別に至っている。もし、興味のある方は、それぞれのページを参照してください。
 遺伝子の発想から優生学が生まれ、アメリカで発展した消極的優生学がもとになって、人種差別的な法律が制定されてしまう。タイトルには科学的人種差別と「科学的」という言葉を使用しているが、ここで進められている動きは、まったく科学的ではない。引用文中にもあるが、人種差別主義者が「科学的」を利用したのだ。
 もともと、中流階級と下級階級との交わりに対して危機感をもった中流階級以上の人たちの間で優生学はひろまった。したがって、もともと人種差別的性格を帯びていたわけでだ。それが、エスカレートし、ある民族だけが優秀という考え方に発展していってしまった。