近代法の原則から外れている「P2P海賊行為防止法案」

 白田秀彰著「インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門 [ソフトバンク新書]」からの引用。

 現在のところ、たとえその目的が正当なものであっても、クラッキング(他人のコンピュータへの侵入や妨害行為)はされている。アメリカでは、「コンピュータ詐欺濫用防止法(Computer Fraud Abuse Act of 1986)」から始まるコンピュータへの攻撃を禁ずる一連の法律によって禁止されている。日本でも、1987年に刑法へ「電子計算機損壊等業務妨害罪(刑法第234条の2)が追加され、クラッキング行為一般は禁止されている。
 アメリカのレコード会社や映画会社たちが支持している「P2P海賊行為防止法案(P2P Piracy Prevention Act)」は、彼らの著作物が、違法に分散交換網で共有されることを抑止する目的で、クラッキングに用いられている各種技術を用いて、違法なファイル交換を行っているシステムの無効化、遮断、妨害を行うことを合法化するものだという。自分たちの商品を盗むような連中には、お仕置きが必要だ、というのが基本的な発想だろう。
 このように自分の勝利を自分自身の力で守ることを自力救済という。自分の権利を自分で守って何が悪い、と言われそうだが、悪いことになっている。皆が自分の信じる法や権利に従って、自分の力でそれらの法や権利を実現するようになると、トマス・ホップスの言う「万人の万人に対する闘争」が始まってしまう。結果的には、力の強い者の法と権利のみが実現することになる。
 近代国家の基本構造は、国内における暴力(軍隊や警察)を国家が独占し、その独占された暴力を背景に、国家が法によって認められた私人の権利を司法手続きを通じて実現するというものだ。
 すなわち、正義の実現はあくまで法に基づいて国家が行うべきもので、私人が勝手に自分の権利を実現したりすることは認められていない。(中略)
 法は、特別な場合に限って、自力救済を認めている。それは、急迫していて国家の司法権力が発動するヒマがないほどの事態であり、かつ侵害されている権利が事後的に回復困難である場合に限定されている。だから、上記の「P2P海賊行為防止法案」のあり方というのは、近代法の原則から外れていると言える。

 自己防衛すなわち正当防衛という言葉はよく耳にする。この自己防衛も自力救済のひとつで、おそらく侵害されている権利が事後的に回復困難な場合にあたるのだろう。ところが、自己防衛という言葉だけが一人歩きして、自力救済がある条件を満たす場合に限り認められるという原則を忘れてしまっているような気がする。
 著者は、この法案が通ってしまうと、「インターネットのある領域について国家が統治能力を持っていないということを証明することになる」と言っている。確かに、国内における暴力(軍隊や警察)を使ってインターネットのある領域を威圧するというは利口な方法では内容に思う。

 ネットワークにおける統治という問題を考えるとき、近代法の枠組みをそのまま使うなら、国家はすべてのネットワーク利用者を特定する能力、すべてのコミュニケーションの内容を傍受・記録する能力を持ちながら、一方でそうした能力をあくまでも法の枠組みに沿って限定的に行使する、ということになるだろう。現在の法整備も、この方向で進んでいる。でも、このアプローチは、民主主義政治体制の前提とされている「内心の自由/言論・表現の自由」に危うい緊張をもたらす。意図しない誰かに見られている、聞かれているという意識そのものが、わたしたちの言論を内側から制約するからだ。
 国家を信頼できると考える人は、国家の統治能力の拡大を主張し、国家を信頼できないと考える人は、法に基づく国家統治能力の制限、すなわち利用者の自由の確保を主張することになる。

 統治の問題は、非常に難しい。国家が、インターネット内で傍受したがる理由の一つは、軍事目的、安全保障にあるからだ。実際、アメリカでは、企業が開発した、決して解読不可能な暗号の利用に関して、政府がある制限を持たせたということがあった。個人や会社がインターネット上で安全にデータのやりとりができるように開発された暗号技術は、国にとってみれば、暗号解読ができないため、テロリストたちのやり取りなど国にとって重要や情報を入手することができなくなってしまう技術でもあった。ここのへんは、サイモン・シンの「暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで」に詳しく記載されている。個人の権利も重要だが、テロなどから国民を守るために、国がいち早くインターネット上で情報をキャッチし、的確な対策を打つといったことも必要だと思う。従って統治能力をどこまで国に認めるかという問題は案外難しいのだ。