心的イメージで考える

スティーブン・ピンカー著「言語を生みだす本能」からの引用。心的イメージで考えていることを表したアルバート・アインシュタインの言葉。アインシュタインは、光の束にまたがって時計を振り返ったり、急降下するエレベーターのなかに立ってコインを落としている自分の姿を思い浮かべて、新しい概念に到達したという。アインシュタインはこう書いている。

 ある種の標識やぼんやりしたイメージなどの心理的単位が、思考の要素の役を果たすように思える。これらの単位は「任意」に再生し、つなぎあわすことができる・・・・このつなぎ合わせの過程が、生産的思考の最大の特徴であるようだ。この段階ではまだ、他者に伝えうる言葉やその他の記号を使って論理的構築作業はまったく関与しない。私の場合、いま述べたような思考の要素は、視覚的であり、同時にある程度の強さを持っている。これらを使っての連想的なつなぎ合わせがしっかり固まり、自由に再生できるようになってはじまて、二次的段階として、うまく当てはまる言葉やその他の記号を苦労して探すことになる。

 う〜ん、天才はこうして発想するのか・・・。凡人には理解できないと言えなくもない。確かにある発想が浮かぶとき、それは言語を伴っているとは限らない気がする。思考ではないが、非常に綺麗な風景に出会った時、その風景を記憶するのは簡単であるが、旅から帰って、その風景がいかにすばらしかったかを説明する場合、アインシュタインと同じ悩みに陥る。アインシュタインの場合、それが景色ではなく、新しい概念だったわけだ。
 有能な野球選手やサッカー選手が、有能な監督になれるわけではないとよく言われる。これらは、自分のイメージを言葉で思考していない例になるかもしれない。スポーツの場合、その選手が持つ有能な運動能力や戦術を言葉を使用して伝えるのが難しいのだろう。まして、他の選手ができないことを言葉を使用して伝えるのは非常に難しいと思う(へたくそなゴルフを人並みにしたいと常々思っているが、残念ながらその方法をうまく伝えてくれる人に出会ったことがない)。音楽家は、言葉よりも音楽の方が自分のイメージを伝えやすいのだろう。
 こうしてみると言語を使わなくともイメージすることはできることになる。自分のなかで意識はしていないが、まず、普遍的な心的言語を使用して思考する。そして、その結果を日本語を使用して表現する。脳のなかでこの2段階を踏んでいるのだろうか。