言語を持たない部族は一つもない

 スティーブン・ピンカー著「言語を生みだす本能」からの引用。1930年にニューギニアでオーストラリア出身の山師マイケル・リーイが先住民と遭遇したときの話が引用されている。その先住民は島の中央部の平地部分に長年住んでいて、下界との接触をしてこなかった。マイケル・リーイがこの先住民たちにとって初めての外国人だった。そんな先住民でも言語を持っていた。

 ある社会の人々が別の社会の人々にはじめて出会うたびに、人類史上何百回となく、リーイの初対面と同じ情景が繰り返されてきたに違いない。現在わかっているかぎり、いつの場合も相手はすでに言語を持っていた。コイ・コインしかり、イヌイットしかり、南米のヤノマモ族しかり。言語を持たない部族が発見された例は一つもない。また、ある地域が言語の「ゆりかご」になり、従来言語を持たなかった集団にそこから言語が普及していった、などという記録も存在しない。

 リーイを見た先住民は、白人であるリーイを「祖先か他のなにかの霊が再び肉体を得て現れたのだろう、夜には骨に戻るかもしれない。」と考えたようだ。先住民にとって白人は奇妙な生き物だったに違いない。

 地上のあらゆる場所に複雑な言語が存在するという事実は、言語学者を厳粛な気持ちにさせる。言語は文化の産物などではなく、人間の特定の本能によって生みだされるのではないか、という疑問がわく最大の理由でもある。文化の産物は、文化圏ごとに精緻さの度合いが大きく異なる。一つの文化圏のなかでは、精緻さの度合いはほぼ等しい。(中略)しかし、言語はこの法則には当てはまらない。石器時代さながらの部族はあっても、石器時代さながらの言語は存在しないのだ。今世紀前半すでに、言語人類学者のエドワード・サピアは書いている。「言語形態にかぎっていえば、プラトンマケドニアの豚飼いと肩を並べ、孔子がアッサムの首狩り族と同列になる。

 人は、字を書く前におそらくしゃべり出したのだろう。今であれば、書物やテレビ、そしてインターネットなどの膨大な情報から色々な知識を得ることができる。しかし、字を書いて情報交換する前、つまり文字がなかったときに言語をどうやって習得できたのだろうという単純な疑問が湧いてくる。口伝えで、あの複雑な文法を伝えて残していったとはとうてい思えないのである。そうなると、言語は、生得的と考えた方が自然なような気もする。