本という記憶媒体

 三浦しをん著「月魚 (角川文庫)」からの引用。

 店にあるときの古本は静かに眠る。これらの本を書いた人間たちは、すでにほとんど全員死者の列に連なっている。ここに残されているのは、この世にはもう存在していない者たちの、ひっそりとしたささやき声だ。かつて生があったときの、喜びや悲しみや思考や悩みの一部だ。真志喜はそれらの本の発する声を、じっと聞いているのが好きだった。書物の命は長い。何人もの間を渡り大切にされてきた本は、老いることを知らずに、「無窮堂」でのんびりと次の持ち主が現れるのを待っている。そういう本を守るのに、外界も時間もあまり関係がないのだった。

 このブログの行く末は、どうなるのだろう。永久に資料を残していくというのは、人類が昔から探し求めてきた手段の一つだと思う。粘土や石碑に刻まれた文字は、ある一定期間保管されるが、風化と共にその姿を維持し続けるのは難しい。また、人から人へと受け継いでいくというのが、永久に近いと思いがちだが、人類が滅びてしまえば伝達できなくなる。まあ、人類が滅びてなお資料を残す意味がどこにあるのかと言われれば、必要は内容に思えるが・・・。
 パソコン関連の記憶メディアも、ずいぶん様変わりしてきているが、果たしてこれが究極といった物が現れるのだろうか。パソコンが誕生した頃の記憶媒体は、カセットテープだった。その後、フロッピーディスクなるものが現れ、1Mバイトまで記録できるようになった。確か、DOS/Vタイプの前のフロッピーディスクの記憶容量は720キロバイトだったような気がするが、記憶は曖昧だ。その後、CDやMOとなり、DVDと進化し続けている。
 記憶容量は劇的に増えているが、使い勝手という意味では、中途半端な物になりつつあるような気もする。例えば、テキストデータのやりとりは、メールでやりとりするのが普通になってしまったが、インターネット回線がショートしてしまえば、それに変わる手段で適当な物がない。なぜなら、他の記憶媒体は、容量が大きすぎて、値段があわないのだ。USBメモリーは少ない容量のものでも1Gバイトぐらいある。価格も1000から2000程度で、気軽に人に渡せる値段ではない。帰ってこな意ことも想定すれば、100円程度の記憶媒体が関の山だろう。そうなると、フロッピーディスクなのだが、今ではほとんど売られていないし、パソコンによっては、読み込み装置もついていない有様になっている。
 確かに、大量のデータを保存するには、今のシステムは便利だが、逆にデータを見つけ出すのに苦労することが多いようにも思える。整理が悪いのが行けないのだ、と言われればその通りなのだが、いかんともしがたい。
 こうして考えていくと、本というのはやはり昔からある、適度な量での非常に優れた記憶媒体だろうと思える。ブログで書いた内容も本というかたちに変換すれば、数冊であろうとどこかに存在し続ける可能性が出てくるのかも知れない。
 現行のブログは、ブログサイトが運営をやめれば、その時点でなくなる。バックアップを取っておけば、手元に残るがたぶんそれ以上のことはしないだろう。
 そもそも、残しておく価値があるのかといわれれば、ないだろうと思えるが、これだけ書き続けるとなんだかそのまま捨てるのは惜しい気もする。どこかの時点で真剣に紙媒体に落とす作業が考えねば・・・。