人間が求めるものは?

フリードリヒ・シュミット=ブレーク著「エコリュックサック―環境負価を示すもう一つの「重さ」」からの引用。この部分はプロローグを執筆した佐々木建氏が書いた文章である。

 人間が求めているものは製品そのものではない。その製品が提供するサービスや便益(利便性)が必要なのだ。ところが現代では、高価なモノを多数購入することが目的化し、そのことが忘れられがちだ。自分のステータスを顕示するためにモノを集める傾向もますます強まっている。メディアで流される広告、ダイレクトメールの奔流に翻弄され、購買意欲をくすぐられて買い換えに走る。しかしここで考えてみてほしい。私たちはモノを「所有」することを市場によって強いられている。ほんとうに必要なのは、そもそも「所有」ではなく「利用」だったはずだ。エコロジー的視点に立てば、「買うこと」と「使うこと」の意義をあらためて問い直すことが求められているのではないだろうか。

 この部分、おっしゃるとおりなのだが、考え方を切り替えるのがいちばん難しい部分でもあるような気がする。どんな裕福な社会でも、そこには貧富の差があり、モノを「買う」ということが一つのステータスになる。これは昔から変わっていないと思う。そこに拍車をかけているのが「買わせる」側であることも事実で、購買欲をくすぐる手法のなんと多いことか。この誘惑に打ち勝って、冷静に判断できる人材がどれほどいるのだろうか?ここに、一つの問題点がある。
 また、「買わせる」側の戦略も「買う」側の行動を束縛する手段を確実に打ってくる。例えば、今手元にある電子手帳。ソニーのクリオという製品だが、発売から6〜7年だと思うが、もう販売すらされていない。もちろんメンテナンスも打ち切られ、修理もしようがない状況になっている。デジタル製品に代わり、製品のバージョンアップが加速するにつれ、ある一定の年月を経て買え変えざる得なくなる環境が構築されているようにも思える。デジタルカメラでも液晶画面が使われているが、本体よりも栄輝賞画面が先にいかれるのは目に見えているのである。では液晶画面が壊れたときに、購入時の消費電力が高い液晶画面をまたその製品に高いお金を出して取り付けるのかということになった場合、多くの人がカメラ自体を買え変えてしまうというのが実情のような気がする。
 この部分をほんとうに見直すのであれば、「買う」側だけでなく、「買わせる」側の意識改革が絶対に必要だと思う。それには、今使用されている大量消費型の原価計算から循環型社会に見合った原価計算への移行が必要だと思う。そのとき、キーとなる考え方が、この本に記載されているエコリュックサックという考え方なのかもしれない。