E.シュレーディンガー著「[asin:4004160804:title]

」のまえがき
 今回から、E.シュレーディンガーの「生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波新書 青版)」の要約を記録していくつもりだが、それにあたり、まえがきのみ前文を引用する。この本が書かれたのは、1940年代だが、すでにこの頃でも、今日、科学の世界で問題視されている学問分野の細分化が課題となっていたことがわかる。統計物理学者を自称するシュレーディンガーは、この本で、量子力学の観点から、生物学での発見を考察し、今後の方向性を示した。多くの生物学者が影響を受けた一冊である。
 「DNA」の著者で、らせん二重構造を発見した、ワトソンやクリックもその例外ではなかった。そのへんの記述はここを参照してほしい。

 そもそも科学者というものは、ある一定の問題については、完全な徹底した知識を身につけているものだと考えられます。したがって、科学者は自分が十分に通暁していない問題については、ものを書かないものだと世間では思っています。このようなことが科学者たるものの犯してはならない掟として通っています。このたびは、私はとにかくこの身分を放棄して、この身分につきまとう掟から自由になることを許していただきたいと思います。これに対する言いわけは次の通りです。
 われわれは、すべてのものを包括する統一的な知識を求めようとする熱望を、先祖代々受け継いできました。学問の最高の殿堂に与えられた総合大学(university)の名は、古代から幾世紀もの時代を通じて、総合的な姿こそ、十全の信頼を与えられるべき唯一のものであったことを、われわれの心に銘記させます。しかし、過ぐる百年あまりの間に、学問の多種多様の分岐は、その広さにおいても、またその深さにおいてもますます拡がり、われわれは奇妙な矛盾に直面するに至りました。われわれは、今までに知られてきたことの総和を結び合わせて一つの全一的なものにするに足りる信頼できる素材が、今ようやく獲得されはじめたばかりであることを、はっきりと感じます。ところが一方では、ただ一人の人間の頭脳が、学問全体の中の一つの小さな専門領域以上のものを十分に支配することは、ほとんど不可能に近くなってしまったのです。
 この矛盾を切り抜けるには(われわれの真の目的が永久に失われてしまわないようにするためには)、われわれの中の誰かが、諸々の事実や理論を総合する仕事に思いきって手を着けるより他には道がないと思います。たとえその事実や理論の若干については、又聞きで不完全にしか知らなくとも、また物笑いの種になる危険を冒しても、そうするより他には道がないと思うのです。
 私の言いわけはこれだけにします。
 言葉に関する困難はなかなかばかにできないものです。母国語というものは、身体にぴったり合った着物のようなもので、もしそれが直ぐに使えないで、別のものを代わりに着なければならない時には、誰でも決して気楽な気分になりきれるものではありません。私はインクスター博士(ダブリン、トリニティ・カレッジ)、パドレイグ・ブラウン博士(メイヌース、セント・パトリックス・カレッジ)および最後に(といっても一番おろそかにするわけではありませんが)S・C・ロバート氏に感謝の意を表します。この三氏は、新しい着物を私の身体に合わせるために大変骨を折られたばかりでなく、私が自分の昔の着物の型と棄てることをたびたびいやがったために、いっそう苦心されました。もし私の昔の型が、三人の友人達の努力を免して不自然に残っているとしたら、その責任は私にあるので、三氏にはありません。
 多数の小節の見出しは、もともと欄外に要約するつもりでつけたものですから、各章の本文は続けて読んでいただきたいのです。図版???(この訳書では第5図(A)(B)、第8図、第9図)の写真はC・D・ダーリントン博士およびエンデヴァー誌(Imperial Chemical Industries Ltd.)の編集者の好意によるものです。各写真の下に原本の図の説明をそのままのせてありますが、その詳細は本書には関係ありません。
1944年9月
ダブリンにて
エルヴィン・シュレーディンガー