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日本語に翻訳するということの大切さ

 インターネットにこれだけたくさんの情報が流れている現在、その国らしさをきちんと考え、それを維持し、それを世界に発信していくことは難しくなっているのではないでしょうか。

 最近、思っていることの一つが、著作権というのはそのうち機能しなくなると言うこと。現在のように誰でも発信できる時代は、同時期にたまたま同じ発想をして、それを発表するということが普通に起きる可能性があると思うのです。

 ソーシャルネットワークなどで情報を各国の人と共有していれば、同じ情報源から同じような発想がもたらされても不思議ではないような気がします。母集団の数が多ければ多い程その可能性は高くなっていきます。

 例えば、手紙などでやりとりする以外方法がなかった時代は、共有できる情報も限られ、地域が異なる場所でたまたま同じことを考えつく人が出てくると言うことは少なかったと思うのです。だから、ライプニッツとニュートンとの間に論争が起きた。でも、たまたま同じ発想をしたということもあり得ないことではないと思います。

 母集団の数がとてつもなく大きくなり、そこに蓄積された情報がとてつもなく多く、多様である場合、正しい意見は自ずとある方向に向いていくような気がします。そうすると誰が発想したということではなく、当然そういう方向に向くということになり、その発想自体に独自性があるわけではないということが起きます。つまり、著作権の意味がなくなるということ。

 話は、少し変わりますが、日本の独自性についても同様なことが起きうると思っています。発想そのものが世界と共有されはじめると発想自体が統一性というか、方向性を国単位ではなく、持つようになると思えるのです。

 現在、コンピュータを使用した翻訳技術は、まだまだ未開発ですが、いずれ近い将来それも意識せずに使用出来るレベルにたどり着くと思います。そうなると、言葉を意識しないで情報を共有することが可能になってきます。

 そうした時代に、その国の独自性を歴史の観点を除いて発揮するのは非常に難しくなるような気がします。もし、それを維持することが出来るとしたら、情報をきちんと母国語に翻訳し、母国語で考え、発想することが必要だと思います。

 現代のように、なんでもカタカナにすることで済ますという翻訳を続けていると、本当の意味での日本の独自性を失いかねない気がします。