ノイマン&モルゲンシュテルンの期待効用基準

 小島寛之著「確率的発想法~数学を日常に活かす」(NHKブックス)からの引用。

 人びとの経済行動には、「期待値基準」では説明しきれない部分があることがわかりました。そこで新しい説明方法を考え出したのが、フォン・ノイマンとオスカー・モンゲンシュテルンです。

ここで出てくる期待値基準とは、「(得られる賞金)×(その賞金を得る確率)の合計」で表されるもの。たとえば、100円のクジで、10000円が0.0001の確率であたり1000円が0.01の確率であたるとする。このときの期待値は、10000円×0.0001+1000円×0.01=10円+10円=20円となり、これがもらえる基準となる。したがって、100円投資して20円儲かるという計算になる。実は宝くじの確率は、これよりももっと低い。それでも人は、宝くじを買うのはなぜかという話だ。

 彼らは、1944年に「ゲーム理論と経済行動」という本を出版し、ゲーム理論というまったく新しい数学理論を構築するとともに、人びとの経済行動を規定する、不確実性下の意志決定をどう記述するかを提案しました。それが「期待効用基準」です。その目的のために彼らは、選好理論という経済学独自の方法を採用したのでした。
 「選好理論」というのは、人は「内面的な好みの順位にしたがって物を買う」という考え方によって消費行動を定式化する方法です。いくつかの前提を仮定すれば、次のように消費活動を描写できるのです。それは、「適切な関数が個人個人の内面に存在していて、その関数の数値が一番大きくなるような消費配分を選ぶ」というものです。このような関数を「効用関数」といいます。これは消費量をインプットするとそれが与える気持ちよさを計算してくれる計算機のようなものです。たとえば、同じ予算でご飯と肉を消費するのに、「ご飯200グラム、肉100グラム」がいいか、「ご飯150グラム、肉120グラム」がいいかを決定するとき、内面的な関数に(200,100)と(150,120)をインプットします。このとき、前者では「30ぐらい嬉しい」という数うちがはじき出され、後者では「40くらい嬉しい」とはじき出された場合は、後者を選択するというわけです。このような効用関数は、個人個人の内面にそれぞれ固有に存在していると考えられます。

 どうも、人のこころの中では、自分に都合のいいように解釈する機能が備わっているみたいだ。それが、ここでいっている効用関数にあたる。効用関数は固有のものであり、それぞれが所有しているらしい。 例にあげられているご飯とお肉のカロリーは、おそらくトータルでは同じ設定なのだろう。その場合、お肉を少しでも多く食べたいと思うか、そうじゃないかの判断を個別に行っているといっている。 

 話を先に進めましょう。ノイマン&モルゲンシュテルンは、選好理論の方法論にならって、人々が次のような基準にしたがって行動を選択することを証明しました。

 個人個人の内面には、クジへの好みを表現する関数uが存在していて、u[(利益の値)]×(その利益を得る確率)の和が最大になるような行動を選ぶ

 このような基準を期待効用基準と呼びます。見てわかる通り、期待値基準との違いは、関数uが入っているところです。関数uは、賭による利益がもたらす「嬉しさ」や「幸福」や「刺激」などの内面的な満足感を代表することのできる関数です(u は utility(効用)の略語)。つまり彼らは、賭の効果の良し悪しを判断するときには、「利益に確率を直接掛けた加重平均」で比較するのではなく、「利益をいったん内面的な関数を通して個人的な量に変換してから加重平均」して比較するべし、としたわけです。
(略)
 ここで心得ておかねばならないのは、「期待値基準」が数学的な見地から「そう行動するのが正しい」「そう行動した方がいい」といった「規範的」な意味合いをもっているのに対し、「期待効用基準」のほうは、「そのようにすれば人の行動を説明できる」といった「記述的」な意味合いを持っている、という点です。期待値基準は、大数の法則を基盤とする頻度主義(客観確率)に立脚する考え方ですが、期待効用基準のほうは、人間の内面や心情や信念などを基盤とするベイズ主義(主観確率)に立脚する考え方なのです。(p.73-75)

 人の行動を他の動物と同じように群れととらえるか、それとも心の動きも考慮にいれて捕らえるかの違いだと思う。
 期待値基準では、人の感情は含まれていない。従って、現在までに人間が経験して積み上げてきた情報・知識に照らし合わせると自然の流れとしてそういうふうに起こる可能性が高いことを示している。
 それに対して、期待効用基準は、人ゆえの心の動きが、無視できないほど、人の行動には働いているので、それを無視した予想は無意味だ、っということをいっている。
 このとらえ方は、物事を短期的にとらえるか、長期的にとらえるかの違いでもあるような気がする。人間の寿命には、限りがありその中で個人が行動する場合の指針としては、ベイズ主義に基づいた推測がいいのかもしれない。間違うこともあるが、修正していくことで真実に近づいていける。失敗をしながら経験を積んでいく。まさに人の行動そのものだ。
 そして、それぞれが、世代を超えてベイズ主義にもとづいた予測を続けていけば、何れ大数の法則に従った統計データへ近づいていくのだから。