視覚の真実

 レナード・ムロディナウ著「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」からの引用。

 人間の知覚はリアリティの直接的帰結ではなく、むしろ想像の作用であることにファラデーは気づいた。
 知覚は想像を必要とする。なぜなら人間が暮らしの中で出くわすデータはけっして完全ではなく、つねに曖昧であるからだ。
 たとえば、人はたいてい、ある事象に対するもっとも重要な証拠は自分自身の目でそれを見ることだと考えているから、裁判で目撃者の証言以上に尊重されるものはほとんどない。ところが、もしあなたが裁判所に、人の目の網膜に捉えられた未処理のデータと同じ質のデータを表示するよう求めたら、裁判官はあなたがいったい何をもくろんでいるのかと思うだろう。じつを言うと、視覚には視覚神経が網膜と結合している「盲班」が入ってくる。さらに、人間の視野の中で良好な解像度を有している唯一の部分は、網膜を中心部周辺、視野角一度ほどの狭い領域だということ。腕を伸ばして親指を立てたときに見える親指の幅が、おおよそその視野角だ。その部分の外側では解像度が急激に落ちる。それを補正すべく、われわれはたえず目を動かし、見たいと思う情景のほかの部分に、そのより鮮明な領域を向ける。だから脳に送られる生データのパターンは、一つの穴を有するあやふやでひどく滑稽な像だ。
 幸いのことに、脳は両目からの入力データを合体するとき、隣り合う部分の視覚特性は似ているので内挿補間ができるという仮定にもとづいてギャップを埋め、生データを加工している。その結果ー少なくとも老化、怪我、病、酒などでだめになってしまうまでー幸せな人間は、自分の視覚は鮮明かつ明瞭であるという抗しがたい錯覚から逃れられないでいる。
 非視覚的なデータの場合も、われわれは想像力を駆使し、データ中のパターンのギャップを手っとり早く埋めている。そして視覚入力データの場合と同じように、不確かで不完全な情報にもとづいて結論を引き出し、判断している。そしてパターン分析がすむと、われわれは自分の描いている「像」が明晰で正確であると推断する。だが、はたしてそうだろうか?

 先日、テレビで滑降選手がコースを滑っているときの目の動きをずっと追っている映像をみた。滑走している約2分の間、目は絶え間なく動き続けていた。そして、その間に瞬きをしたのはわずかに2回。ゴールを過ぎると正常な瞬き回数に戻っていた。
 この選手は、以前コース内で瀕死の重傷を負った経験を持っていて、同じコースを滑ったときに、脳が恐怖を思い出すかどうかを調べるという設定だったが、それよりも、目から脳に入る情報がいかに断続的であるかをあらためて知らされた映像でもあった。
 まさしく、目から入ってくるデータは、コマ切れ状態で脳に入っていき、それを脳の中でつなぎ合わせているのだろう。ただ、時速百キロをゆうに超える状態でその情報はどれほど意味を持っているのだろうか。すでに脳で合成された映像に目から入った一部の新たな情報を加えるという作業だけしか行えないような気がする。
 そういえば、昔自動車に乗ってコースアウトしてひっくり返ったときに、いやに目に映る情報がスローモーションだったのを記憶しているが、これも脳が作り出した映像で、リアルな情報ではなかったのかもしれない。