味覚と臭覚によるあいまいさ

 レナード・ムロディナウ著「たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する」からの引用。

 理論的な視点からすると、ワインの格付けの意味に疑問を抱く理由はいろいろある。一つには、味の知覚というものは、味覚の刺激と臭覚の刺激との複雑な相互作用にかかっていること。厳密に言えば、味の感覚は舌の上の五種類のーつまり、塩見、甘み、酸味、苦み、うま味のーレセプター細胞から生まれる。最後のうま味は、ある種のアミノ酸化合物(たとえば、醤油に豊富に含まれている)に対する反応だ。
 だが、もし味の知覚がそれですべてということなら、お気に入りのステーキであれ、焼きジャガイモであれ、アップルパイであれ、美味しいスパゲティ・ボロネーゼであれ、すべてを食卓塩と砂糖と酢とキニーネとグルタミン酸ナトリウムを使うだけでまねすることが可能だ。幸いなことに、牛飲馬食にはそれ以上のものがあり、またそこが臭いの感覚が絡んでくるところだ。臭いの感覚があるから、二つの同じ砂糖水の溶液のうちの一つに、(シュガーフリーの)イチゴのエッセンスを加えると、それはもう一方より甘い味がするのだ。知覚されるワインの味は、600から800種の揮発性の有機化合物が混じりあったものが、舌と鼻に与える作用から生じる。そしてそこのところが問題の一つだ。というのも、訓練を積んだプロの味効きでも、ある混合物中に含まれる三、四種類の化合物でさえ、なかなか確信をもって識別できないことが研究によってわかっているからだ。

D.Laing and W.Francis, "The Capaciity of Human to Idetify Odors in Mixture,"Physiology and Behavior 46,no.5(November 1989):809-14;and D.Laing et al.,"The Limited Capacity of Humans to Identify the components of Taste Mixtures and Taste-Odour Mixtures,"Perception 31,no.5(2002):617-35

 データの曖昧さの例として書かれている部分なので、本編の趣旨から少しはずれている。ただ、味覚ほど曖昧なのに確信をもって語られる場合が多いものはないような気がする。
 ここに書かれいるように、実は臭いがくせ者なのだと思う。よく、食べず嫌いの代表格にあげられるくさややなれ鮨など発酵食で臭いの強いものが私はまず食べられない。口に運ぶことさえ脳が拒否してしまう。では納豆はというと、これは子どもの頃から食べさせられていたこともあって、平気で食べられる。
 腐っているものと発効していて食べられるものとの区別を微妙に区別出来ないでいる自分がそこにいる。これらはすべて収穫によって混乱がもたらされている例と言えよう。
 臭いの機構は、まだ完全に解明されていないと聞く。従って、どういうものを臭いと感じているのかは不明だ。ここで書かれているように有機化合物の何かを臭いとして判断しているらしいが、それがなんなのかは完全にはわかっていないらしい。
 それに加え、何百種類の有機化合物が同時に揮発(微妙にタイミングが違っているかも知れないが)しているのだから、どれがいい臭いの元なのか、嫌な臭いは何に起因しているのかを判断するのは、並大抵なことではない。
 でも、実際はある人にはそういう能力があって、その人の判断は間違っていないと簡単に思って信じてしまう。このギャップはどこから来るのだろう。
 普通に考えれば、ワインの風味を正確に表現できる人などほとんどおらず、自分の臭覚から感じ取った印象を芸術的かつ文学的に表現できる人の言葉を信じているだけなのかもしれない。