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個人の位置づけについて

覚書

須田和博著「使ってもらえる広告 「見てもらえない時代」の効くコミュニケーション (アスキー新書)」からの引用。

 大衆は、時代の変化とともに分衆へと変化し、さらに個へと移行していった。
 今の「ユーザー」とは、情報の受け手である「生活者」であると同時に、ウェブ上のさまざまなサービスを利用しながらアクティブに活動する「情報発信者」でもある。
 人々の嗜好に対して、ひとくくりにして”ラベリング”することが、不可能に近いほど難しい時代になってしまった。

 確かにこの流れは確実に起こっている。昭和三十年代、街頭テレビに群がる人の群は、まさしく大衆と呼ぶのにふさわしい存在だったと思う。
 当時、人は情報や知識に飢えていた。情報源と言えば、新聞やラジオ、そして映画などだったし、特定の情報を得ることができる専門書は高価だった。雑誌も今のように豊富な種類があったわけではなかった。
 分衆と定義されているのは、80年代から90年代前半あたりか?インターネットがまだ普及する前、テレビや専門誌などが充実し、ある程度同じ趣味を持った人間が集まる場ができあがっていた時期を指しているのだと思う。何とか族でくくられたいくつものグループが存在し、そこに価値観を感じて共有していた時代だったと思う。
 そして、インターネットの普及が始まった2000年頃。グループでなくても、ほしい情報が個人で入手できる時代になった。検索エンジンの普及が、それを実現したのだ。
 最近では、個人がブログを使用して、簡単に情報を発信出来るようにもなった。去年ぐらいからは、Twitterなどを使って、パソコンを使わずに情報を発信出来るシステムもできてきた。こうなってくると、ここに書かれているように、個人は、生活者であるとともに情報発信者になりつつある。

 ウェブユーザー(今の人々)は、検索によって自分が興味を持てそうなタグにアクセスしながら、「ゆるく広くつながっていたい」のである。

 そういうウェブ上の人々は、今までのジャーナリストのように、正義感やジャーナリズムに沿ったかたちだけで、行動はしない。ここに書いてあるとおり、「緩く広くつながっていたい」のだ。ネットのどこかにいる人々と緩くつながっていたいために、他の人々との関係を壊さない程度に自分の信頼性を周りにアピールする。それが後述されているノードとしての信憑性にもつながっていく。

アルス・エレクトロニカ」は、今後のコミュニケーションにおいて、「パブリックとプライバシーの境界が曖昧になる」とした上で、「すべてのユーザーがネットワークのノード(結節点)になる」と予測した。

 ここに書かれているように、パブリックとプライバシーの境界が曖昧になるかどうかは、僕にはわからないが、ネットに参加している人たちが確実にノードとして成長していくだろうことは、想像できる。
 50年も昔に戻ってみれば、今のように多くの人が自分を主張できる時代ではなかった。一部の個人を名乗れる人々とその他大衆の世の中だった。もちろん、より多くの人が個人を主張できる時代になったことは、好ましいと思う。
 ただ、そのことはそれぞれの個人にとって一番重要なことなのだろうか。お互いに個人を主張しあう世の中よりも、お互いをある程度認め合いつつ、自分たちが生きていく上で有意義な程度にゆるく世の中とつながっている。そんな社会をみんなが目指し始めたような気がしてならない。