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いい文章

覚書

 ぼくが考えていたのは言葉のことなんだ。

 ぼくはたくさんの人が書いた文章を読んだ。世界的な文豪もいれば、B級のペーパーバックライターもいた。大新聞や雑誌のジャーナリストに、予備校で小論文を教えるセンセイなんかもね。

 結論はこうだ。ただひとつの正しい文章の形なんて、この世界には存在しない。世界の状況は刻々と変化している。固定された文章ではいくら正しく美しくても、世界が変わったときに新しい世界について語ることができない。言葉はもともと世界を再現するためのシミュレーターだった。だから、世界が変わったら言葉が変わるのは自然なことなんだ。

 しかし、ただひとつの正しい文章は存在しなくても、いい文章とそうでない文章を見分ける方法があるはずだとぼくは考えた。参考になったのは大脳生理学と心理学のテキストだ。要するに言葉を固定されたものと考えることが間違いだったんだ。目の前に印刷された活字が厳然と存在するから、みんなかん違いするのは仕方がないけれど。

 言葉を紙に固定されたものではなく、もう一段まえの状態から考え直すんだ。言葉の謎を解く鍵は、言葉が生まれる場所にあった。そこで言葉という存在は、人間の意識がただの表音記号で固定されたものへと還元される。意識というのはほんの数秒から数十秒しか続かない心の働きなんだ。集中力なんて簡単にいうけど、高度な集中力は一瞬しか続かない。そこでぼくは、いい文章とはその人の心の動きをなるべくいきいきと再現した文章なのではないか、と単純に考えるようになった。僕たちの意識には実にさまざまな働きがある。

 ぼくたちの意識は、なにか主題を選び、立ちどまり、連想する。のろのろと動くかと思えば、稲妻のように正反対に跳躍し、遙か先方を予想する。同じところをぐるぐるまわり、深く潜ったり、その場に縛られて円を描くだけだったりする。ためらいやだらしなさ、それにあるとき突然やってくる発見や至福のとき。立派でも正しくなくても、美しくなくてもいい。心のおもてを流れる電磁パルスのような生のきらめきを表現すること。心の弾みをいきいきと紙のうえに映すこと。ぼくにとって素晴らしい文章を計る基準は、そこにおかれることになった。

石田衣良著「アキハバラ@DEEP (文春文庫)」からの抜粋

 常日頃から、いい文章とはどういう文章を言うのだろうと考えていた。順序立てられた論理的な文章は、確かに読みやすいが、書き手の心が見えないことが多い。
 また、「しゃれてる」とか「いけてる」とか「クールだな」と感じるフレーズは、文章の脈略とは無関係に存在していることが多い。広告のキャッチコピーなどがそのいい例だと思う。
 だとすると、人はどういう文章に引きつけられるのだろうかと・・・。
 その答えが、ここに書かれているような気がする。書き手の息づかいや心の動きが見て取れるような文章に出会ったとき、我々は感動するのかも知れない。