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才能

覚書

 角田光代著「恋をしよう。夢をみよう。旅にでよう。 (角川文庫)」からの引用。

 化粧を含め、見づくろいってのは、明らかに何かの才能である。当然、才のある女とない女がいる。才能ってのは継続力だと私はつねづね思っている。継続しても、苦にならない何かをもって才能と呼ぶのだと。
 ほら、昔ピアノ習わされたでしょう。普通にレッスンにいく子と、仮病使いまくって休み続けたあげく、やめていく子がいるでしょう。前者は才能があるのだし、それからさらに専門分野に進むとなると、もっと難易度の高い継続を強いられるわけで、これが難なくできる人になると、泣いて騒いで仮病使ってレッスンをいやがる子の気持ちなんか、ぜーんぜんわかんないと思うのだ。

 才能を考えるとき、継続力のまえに、なぜ継続が維持できるのかという問題があるように思える。そこまで続けられる源になっているものは何かということである。最初は興味本意だったり、向上心だったりするのだろうけれで、才能まで結びつくまでには、それらを超えた強い意志というか、揺るぎなく目標に向かって進む力みたいなものがないとだめなような気がする。
 英語などの語学の場合、好奇心だけでは先に進まない。以前、ハリー・ポッターの初版を英語で読んだことがある。何ヶ月もかけて辞書と翻訳書の助けを借り、最終的には読み切った。物語のおもしろさもあったが、翻訳者の訳のうまさなどに感心し、続いたような気がする。しかし、一冊でおしまいである。めんどくささが先に立ち、2冊目以降は続かなかった。
 本当は、次から次へと連鎖のごとく英語の本を読破していけてれば、今頃何食わぬ顔をして、「オバマの演説はたいしたものだったねえ」などとほざいていたのかもしれなかったが、現実は否である。
 考えてみると、子どもの頃からずっと続けているものは皆無かもしれない。10年ぐらいのスパンで趣味がころっと変わっているような気もする。学生時代や20年代の頃は、スキーに夢中になっていたし、ここ十年ぐらいは、ゴルフが趣味となっている。巨人ファンから阪神ファンになって、今では野球にあまり興味がない。
 つまり、自分は継続力や才能とは無縁の男なのだ。