読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

山を登ること、何かを書くこと

覚書

 角田光代著「【送料無料】あしたはアルプスを歩こう [ 角田光代 ]」からの引用。
 昨日からの続き。初めての方は、昨日の日記も参考にしてください。

 わかったのだ、マリオさんの言っていたことが。自分の目で見ないと信じることができない。というのは、マリオさんの宗教観であるとともに、山に登る理由でもあるんじゃないか。
 山頂に向けてふたたび歩き出した私は、そのことを訊いた。
「神さまを信じるのも、山に登るのも、マリオさんにとっては同じことですね」
 そうなんです。マリオさんは答える。
「あそこに山がある。頂上に登れば、向こう側の景色が見える。登らないで、見えない景色を推測することを私はしたくない。自分の足で登れば、頂上から向こう側の景色が見える。自分の目で見えないと信じられない。逆に、自分の目で見てしまったら、もう信じるしかないんです。それは山も、神も私にとって同じなのです」
 マリオさんはそこで言葉を切り、少し考えて、つけくわえた。
「山を登っていると、頭のなかが空っぽになる。禅も同じ。禅を組んでいると、自分自身が空っぽになる。それで、自分以外の何か大きなものと一体となるという実感がある。山と禅はよく似ているんです」
 マリオさんの言葉がすんなりと心に届いたのは、じつは私も同じようなことを考えていたからだ。
 人の言葉を使わないこと。人から見聞きしたものを安易に信じないこと。自分の手で触れ、自分の目で見ること。何かを書くときに、私が自分に課している唯一のことだ。

 マリオさんが言っている「自分自身が空っぽになったとき、自分以外の何か大きなものと一体となるという実感」は、感じたことがない。山を登っているとき、歩いているとき、そして走っているときに、頭の中が空っぽになることは経験したことがある。しかし、自分にとって、そこから先は経験したことのない世界なのだ。
 しかし、何かを生み出す(例えば、文章を紡ぎ出すとか、自分独自のアイディアを絞り出すなど)ためには、こういう境地にならないと出来ないのではないかと思えてくる。前の日記に書いたように、作詞家の松本隆さんも同じようなことを言っていた。「何も考えない、頭の中を空っぽにする、これが作詞をするときのこつ」っと。
 頭のどこかに誰かの文章がこびりついていたり、誰かが言ったことが見え隠れしたりすると、本当の自分の意見が出てこない気がする。これらが、ごちゃ混ぜになって、そこから絞り出されてくるものが自分独自のものになる。そのためには、頭の中が空っぽになっている必要があるんじゃないかと思う。