マリオさんがキリスト教に対して抱いた違和感

 角田光代著「あしたはアルプスを歩こう (講談社文庫)」からの引用。
 マリオさんは、このエッセイで著者の角田さんが、イタリアで初めて、トレッキングに挑戦したときのガイドさんだ。イタリア人で65歳。ロッククライミングもこなすが、仏教の僧侶の肩書きも持っている。そんなマリオさんにキリスト教に対して抱いた違和感について著者が質問している。

 キリスト教に対して抱いたマリオさんの違和感って、なんだったんだろう。坂を下りながら、そのことを訊いてみた。
 キリスト教は信じなければならないものが多すぎるとマリオさんは言う。神とマリア、イエスとその奇跡、真実と天国。信じることを必要とする宗教は、人を子どもにするような気がした。マリオさんは静かに語る。なんにも考えなくていい、子どもにしてしまうんじゃないかと。自分が感じた違和感というのは、つまりそういうことなんだ。
《略》
 そうだった。マリオさんに訊いてないことが、まだあった。私は思い出し、ザイルの先にいるマリオさんに話しかけた。
「マリオさん、このあいだ、キリスト教は自分には違和感があったと言いましたよね。でもそれで、仏教には違和感を感じなかったのですか」
「感じなかった」
 私を気遣い、ゆっくりと先を歩いていくマリオさんは即答する。
「それはどうしてですか。仏教の何がよかったんでしょう」
 私はなおも聞いた。先を歩くマリオさんは、言葉を選びながら、静かに説明する。
 仏教は禅を組む。そうして、悟りの境地をずっと待つ。それは自分にしかわからない。禅の先にあるものは、自分でいって、自分で見ないとわからない。見たことのないものを、ただ言葉で説明されて、これを信じなさいと言われても、私には信じることができない。自分の目で、体で、見たり知ったりしていないから。けれど仏教は違う。見たり、感じたりできなければ、知らないまま、捜していかなくてはならない。仏教のそういうところが、自分の性にあったんだと思う。

 この本は、作家角田光代さんが、初めてトレッキングに挑戦した体験記なのだが、山を歩くとはどういうことなのか、また、書くとはどういうことなのか、をガイドのマリオさんの話を聞きながら、著者が気づいていく話が平衡して展開されている。
 その中で、一番重要なポイントとなるのがこの部分だと思う。キリスト教に違和感を覚え、仏教に興味を持った30歳のマリオさんは、キリスト教一色のイタリアでは仏教に関する情報がほとんど入らなかったため、日本語も話せないのに、単身日本に渡り、修行僧となる。そんなマリオさんがキリスト教に対して抱いた違和感とは、「ただ言葉で説明されて、これを信じなさいと言われても、私は信じることができない。」というものだった。
 「自分の目で、体で、見たり知ったりしないと信じられない。」とマリオさんは思ったという。そして、それは、山を登ることにつながることに、著者は気づく。その部分は明日。