数学とは創造するものなのかそれとも発見するものなのか

 マーカス・デュ・ソートイ著「素数の音楽 (新潮クレスト・ブックス)」からの引用。

 数学とははたして創造するものなのだろうか。あるいは、発見するものなのか。数学者の多くは、自分がなにかを創り出しているという感じと、科学の絶対真理を見出しているという感じの間を揺れている。数学のアイデアは個人に深く根ざしていることが多く、創造的な頭があればこそ生まれたと思われることが多い。しかしその一方で、数学は理論的なものであり、数学者はみな不変の真実に満ちた同じひとつの数学世界に暮らしている、とも信じられている。真実は、ただそこで発見されるのを待っているだけであって、どれほど創造的な思考をもってしても、真実を崩すことはできない。すべての数学者に内在するこの創造と発見のあいだの緊張を、ハーディーはみごとに捉えてみせた。「思うに、数学的な実在はわれわれの外にある。それを発見し、観察することがわれわれのつとめであって、われわれが証明し、自分たちが『創り出した』と大言壮語している定理も、その観察記録に過ぎないのだ」とはいえふだんの彼は、一連の数学研究をもっと芸術的に述べることをよしとしていた。『ある数学者の弁明』では、「数学は、瞑想を旨とする学問ではなく、創造を旨とする学問なのだ」と述べている。

 数学にしろ、科学にしろ、真実はすでに存在していると思う。それを発見するのに、凡人にはないひらめきと別の角度からの観察と考察が必要なのだと思う。
 よく、人間が発明したものという表現が使われるが、個人的にこの言葉に違和感がある。人間が作りだしたのではなく、この世界にある真実やルールを気づくことで、自然のルールに従った工夫ができるようになったと考える方があっているように思う。ただ、その真実やルールを普通の凡人では見つけることができないだけのことだと思う。
 創造性とは、そういう意味で使うべき言葉ではないだろうか。