「博士の愛した数式」が生まれるまで

 小川洋子著「物語の役割 (ちくまプリマー新書)」からの引用。小川さんが、「博士の愛した数式 (新潮文庫)」という小説を書こうと思ったのは、NHKのテレビ番組で、数学者である藤原正彦さんが、目に涙を浮かべてハミルトンという数学者の悲恋について語っていたときだという。

 藤原先生の口から「接吻」というセンチメンタルな言葉が出てくることが、以外でした。そこで、数学者に対して自分は間違ったイメージを抱いていたということに気づいたのです。

 小川さんは、数学者を無機質な対象を無感動で研究しているのだと思っていたようだ。ところが、感情をこめて数学者を語る藤原さんを見て、数学者には人間味豊かな感情が存在することに気づいたという。そして、もう一つ以外だったのが、謙虚さだという。

 よくこういうことが言われると思います。「相対性理論は、アインシュタインが発見しなくても、何年後かに別な人が発見しただろう。しかし、モーツァルトの音楽は彼が居なければ決して生まれなかった」と。つまり、フェルマーの定理は、1994年にイギリスのアンドリュー・ワイルズという数学者によって証明されたが、ワイルズが証明できなくてもいずれ誰か他の天才が証明できた。しかし、ピカソの絵はピカソにしか描けない、ということでしょうか。
 このように、数学者を含めた科学者の人たちが、ある特別の謙虚さをもって自分の仕事に当たっていることが、大変魅力的な点でした。

 ここの部分に関しては、ちょっと違った見方もあると思う。小川さんが感じられたように謙虚さとして映る面のあるだろうが、数学や科学が追究しているテーマは、音楽家や画家が追求するテーマと違って、より具体的であり、テーマ自体が明確化されている。例えば、フェルマーの定理とは、「x^n+y^n=z^nという方程式は、nが2よりも大きい場合には整数解をもたない」というものだ。このようにテーマがはっきりしている。従って、世界に存在する多くの天才たちが同じテーマを追求することができる。そのため、アインシュタインという天才以外の天才がいずれ相対性理論を発見するだろうという発想になる。
 一方、音楽家や画家が求めているものは、抽象的なテーマだから、イメージする内容が個々に違ってくる。従って、そこから生まれてくるものは当然違ったものになる。
 もしモーツアルトがいなかったとした場合、彼が作った音楽のいくつかの作品を他の人が作曲した可能性はあるが、すべての作品を全く同じように作る人が出てくることはないと思う。この違いが上の言葉の意味だと思う。

 以上のような出会いにより、私の数学に対するイメージは根底からくつがえされました。数学と耳にするだけで、自分には無関係と決めつけていたのに、そこに予想もしなかった不思議、驚きが隠れていたのです。すぐに私は、これは小説の題材になると直感しました。数の世界が、才能豊かな数学者たちが頭を垂れるほどに美しいものであるなら、その美しさを言葉で表現してみたい。というところから作品が生まれてきたわけです。
 まず、数学者を登場させるとしても、自分自身に数学の知識がないのですから、数学者を語り手にすることはできません。そこで、その数学者を観察しながら、少しずつふれ合いを深めてゆき、同時に数の世界の美しさに気づいてゆくような立場の語り手が必要になってきます。家庭ではあまりにも密接すぎる、恋人ではまた生々しくなりすぎる、もっと適切な距離を保ちつつ、尊敬の念を育めるような関係はないだろうか・・・・と、あれこれ考えました。
 その時、ふと思い浮かんだのが家政婦さんという職業です。家政婦さんなら、ずかずかと無遠慮に人の人生に踏み込んではきません。それでいて現実的な生活の面では大きな役割を果たす。相手がどんな人格を持っていようとも、とにかくすべてを受け入れ、耳を傾ける。しかも数学とは縁遠い職業でしょうから、きっと私自身が感じたのと同じ不思議と御とろきに、心を揺さぶられるに違いない。そうした思いの中から、数学者と家政婦さんという主要な登場人物が浮かび上がってきたのです。

 この発想は、やはり小説家のものなのだと思う。また、数学に全く興味がなかった人が、その面白さを肌で感じ、それを言葉で表現するには、小川さんとまったく同じ感覚を持つ語り手が必要だったということなのかもしれない。