サイモン・シン「[asin:4102159711:title]」の完全数のくだり

 小川洋子氏は、「ある本の完全数のくだりを読んでいると、28という数字が出てきて、江夏の背番号じゃない」と思ったとエッセイ集に書いている。「博士の愛した数式 (新潮文庫)」の参考図書にもあげられていたサイモン・シンの「フェルマーの最終定理 (新潮文庫)」に書かれている完全数に関するくだりは以下のような内容になっている。

 ピュタゴラスによると、数の完全性は、その数の約数(その数を割ってあまりが出ない数。ただしここではその数自体は含まないものとする)によって決まる。たとえば12の約数は1,2,3,4,6である。ある数の約数の和がその数自身よりも大きければ、その数は“過剰数”と呼ばれる。12は過剰数である。なぜなら、その約数の和をとると16になるからだ。それに対して、ある数の約数の和がその数自身よりも小さければ、その数は“不足数”と呼ばれる。10は不足数である。なぜなら10の約数(1,2,5)の和は8しかならないからだ。
 最も重要で、しかもめったに存在しないのが、約数の和がその数自身と同じになる“完全数”である。6は約数として1と2と3をもち、1+2+3=6になるから完全数である。6の次に現れる完全数は28である。その約数を加えれば、たしかに1+2+4+7+14=28になる。
 6と28の完全数はピュタゴラス教団にとっては数学的な意味で重要だったが、教団以外にも、月が28日で地球を周回することに気づいた文化や神が6日で天地を想像したと主張する文化ではその重要性が認められていた。聖アウグスティヌスは「神の国」のなかで、神は一瞬のうちに天地を創造することもできたのだが、宇宙の完全性を反映するために6日かけることにしたのだと論じている。またアウグスティヌスは「創世記逐語注解」のなかで、6が完全なのは神によって選ばれたからではなく、完全性はこの数に内在しているのだと論じた。「6はそれ自身として完全な数である。それは神が万物を6日で創造されたからではなく、むしろその逆が正しい。神が万物を6日で創造されたのは、この6という数が完全だからであって、たとえ6日の業がなかったとしても、6の完全性はゆるがないであろう」

 もし、このくだりから江夏が出てきたというのであれば、小川氏は江夏のファンであるか、阪神ファンだったのではないかと推測される。著者のサイモン・シンは、もちろん阪神タイガースや江夏を知っているわけではないので、当然そのような逸話は出てきていない。28の例としてここで取り上げられているのは月の周回数である。むしろ6に対する記述の方が長く、28に関してはさらりと流されているかんがある。
 去年、この本を読んだとき、自分自身は阪神タイガースファンにもかかわらず、江夏を想像することはなかった。ここが、作家と凡人との違いなのかもしれない。物事を違う角度から見ることができるというのは、どんな職業にも重要だが、作家の第一歩はこうしたところになるのかもしれない。
 実は、小川氏は、この次のくだりも参考にしたと思われる。その部分の引用は明日しようと思う。