道徳的に許容できることに関する基準の着実な移行

 リチャード・ドーキンス著「神は妄想である―宗教との決別」からの引用。

 アメリカのイラク侵攻は、市民のあいだに犠牲者を出したがゆえに広汎な非難を受けているが、しかしそうした犠牲者の数値は、第二次世界大戦において同様の状況で得られたであろう数字と比べれば、桁違いに少ない。ここには、道徳的に許容できることに関する基準の、着実な移行があるように思われる。ドナルド・ラムズフェルドは現代でこそこの上なく酷薄でおぞましいことを言っているように聞こえるが、もし彼が第二次世界大戦中に同じことを言っていたとすれば、なにかといえば事を大袈裟に危惧してみせるリベラル派のように見られただけのことだろう。この数十年に何かが移り変わってしまったのだ。それは私たちすべての中で移り変わっており、宗教とはなんの関連もない。どちらかと言えば、それは宗教のゆえに起こったのではなく、宗教があるにもかかわらず起こるのである。
 この移行には、はっきり認められる首尾一貫した方向性があり、その方向性を私たちの多くは改善と判断するだろう。悪の外延を前人未踏の領域まで推し進めたとみなされているアドルフ・ヒトラーでさえ、カリギュラやチンギス汗の時代には目立つことはなかっただろう。ヒトラーがチンギス汗よりも多くの人間を殺したことは疑いないが、彼は二十世紀の技術を思うままに使うことができたのだ。そしてヒトラーといえども、チンギス汗が公然としたように、犠牲者の「涙にくれる愛しい近親者」を見て無情の喜びを得ただろうか?私たちはヒトラーの悪の程度を現在の基準によって判断するが、道徳に関する時代精神もテクノロジーと同様、カリギュラの時代以降移り変わってきたのだ。ヒトラーは、私たちの時代のより慈悲深い基準で測られればこそ、格別に邪悪に見えるのである。

 日本においても、道徳に関する時代精神は、着実に改善の方向に進化していると思いたい。現首相の「美しい日本」が何を目指しているのか、はっきりしないが、現在でも「日本は美しい」と思っている人は多いと思うし、道徳に関しては、他の国々よりも進んでいると思っている。
 日本は、他の国々よりも政治の宗教からの独立性は高い気がする。その分、宗教に引っ張られることなしに、道徳の改善が戦後急速に進んだと思われる。