聖書の本質

 リチャード・ドーキンス神は妄想である―宗教との決別」からの引用。この本の中でドーキンスは、アメリカ人医師で進化人類学者のジョン・ハートゥングの論文を引用している。そのエッセンスとも言うべき部分が、下記の部分だ。

 聖書は、内集団特有の道徳意識の青写真であり、外集団の虐殺と奴隷化、および世界支配のための指示といった必須要素が完備されたものだ。しかし聖書は、そういった目的をもっているから、あるいは殺人・虐待・強姦を賛美することまでしているから邪悪なのではない。それを言うなら、多くの昔の著作はみんなそうだ。例えば、「イーリアス」、アイスランド・サガ、古代ギリシャの物語や、古代マヤの碑文などを見てほしい。しかし、「イーリアス」を道徳の手本として売り込んでいる人間もいない。そこに問題がある。聖書は、人々がどう生きるべきかの手引きとして売り買いされている。そしてそれは、世界でつねに群を抜いたベストセラーなのである。(p.377)

 聖書に関しては、読んだことがないのでコメントのしようがない。まして、ドーキンスがこの本の中で引用している原書に近いものについては、おそらく読む力もないのが現実だ。
 ただ、一神教にしろ、多神教にしろ、ある集団内を維持し守っていくために使われてきたことは否定できないと思う。ようは、使う側の問題だ。時の権力者が宗教を利用したり、その影響を恐れたりしたことは、史実からみて、日本にもあった。例えば、江戸時代のキリスト教徒迫害や、織田信長の延暦寺焼き討ちなど、宗教自体を忌み嫌ったのではなく、その宗教を牛耳る権力を恐れたから行われた可能性がある。