ガがロウソクの炎に飛び込むのは、普段は役に立つコンパスが誤作動した副産物である。

 リチャード・ドーキンス神は妄想である―宗教との決別」からの引用。

 ガはロウソクの炎に飛び込むが、それは偶然の事故のようには見えない。彼らはわざわざ寄り道して炎に身を捧げるのだ。しかし、それに「焼身自殺行為」という名前を付けた私たち自身が、この挑発的な名前を前にして、いったいどうして自然淘汰がそのような行動を進化させることができたのか、納得がいかずに頭を悩ます、ということがありうる。何が言いたいのかというと、私たちは自分の立てた問いを適切なものに書き直さない限り、理に適った答えを探そうと試みることさえできない、ということだ。実はこの行動は自殺ではない。一見自殺に見える行動が、ほかの何かの行動の不本意な副作用ないし副産物として現れる、ということがあるのだ。副産物だって・・・・・何の?さて、遅疑に述べるのは一つの可能性であり、これが、論点を明らかにするのに役立つだろう。

 我々がよく目にするのは、ロウソクの炎に飛び込むガではなく、街灯や車のヘッドライトに飛び込むガの姿だろう。飛び込む原理は、後述の引用のとおりで、ロウソクの炎も街灯やヘッドライトも同じだ。
 問題は、誰もがそれを自殺行為と思ってしまうところにある。こうした勘違いは、そこら中に転がっている。天然だから安心といった感覚もそのひとつだろう。有機野菜など化学肥料を与えないで育てた野菜は、害虫から身を守るために、自ら農薬に匹敵する物質をつくりだしてしまう。この手の物質は、化学肥料のように水で洗ったとき、きれいに落ちる物と違って簡単には除去できない場合もある。また、有機野菜だからといって洗いもせずに口にしてしまう人も多いかもしれない。適正量の化学肥料を使った野菜の方が数段安心できる野菜なのである。しかし、多くの人が勘違いしている。

 人工的な光が夜という舞台に登場するのは最近のことである。それまで、夜間に目につく光といえば、月と星だった。それらは光学的には無限の彼方にあるので、やってくるのは平行光線である。このため、月や星だけはコンパスとして使うのに適している。昆虫は、正確な方位に向かってまっすぐ進むために、太陽や月のような天空の物体を使うことが知られており、狩りが終わったあと、同じコンパスを逆向きに使って、巣に戻ることも可能だ。昆虫の神経系は、「光線が30度の角度で目に当たるように進路を取れ」といった類の合わせの経験則を設定するのに適している。昆虫は複眼(目の中心からハリネズミの針のように、まっすぐな管すなわち個眼が放射状に出している)をもっているので、結局のところ昆虫がおこなっているのは、光を特定の一つの管、すなわち個眼で捉えるという単純な作業のことになる。
 しかしこうしてコンパスとして用いることのできる光というのは、光学的に無限の彼方にある天空の物体から来るものでなければならない。もしそうでなければ、光は平行にならず、車輪のスポークのように分散するからだ。ロウソクの近くで、それをあたかも、光学的無限の彼方にある月であるかのように、30度(あるいは定まった角度であれば何度でもいいのだが)という経験則を適用している神経系は、らせん状の飛跡を描きながら炎に突入するような方向へとガを導くことになる。30度でも何でもいいのだが何か正確な特定の角度を使って、自分で線を引いてみてほしい。そうすれば、ロウソクの炎に飛び込むきれいな対数らせんができるはずだ。

 太陽や月は我々の住む地球から十分遠くにある。従って、地球に降り注ぐそれらの星から来る光は、平行になって届く。昆虫は、これを比かIRのコンパスとして利用している。
 ところで、近くにある光源、例えば街灯や白熱灯などは、近くにあるが故に光が放射状に飛び出している。太陽や月から来る光と違って、放射状に拡がる光をコンパスに利用してしまうと、まっすぐ飛ぶことができずに、螺旋状に回転してしまう。つまりコンパスの役目をしなくなってしまうのだ。ガは、平行な光をもとに移動するようにプログラムされている。ところが、光が放射状か平行かを区別するセンサーは持ち合わせていない。これは、人間も同じだと思う。従って、二つの光の違いを区別することなく光を利用してします。その結果、ガは、螺旋状の運動をしながら街灯やヘッドライトに飛び込んでしまう。

 この特殊な状況下では致命的ではあるが、ガのこの経験則は、平均的にはうまくいく。なぜならガにとって、月を見ることに比べればロウソクを見るのははるかに希なことだからである。月や明るい星や、あるいは遠くの町の輝きをさえ頼りに、音もなく、効率的に進路を決めている無数のガがいることに気づかないだけなのだ。私たちはロウソクのまわりを巡って突入するガだけを見て、「なぜこれらのガはみんな自殺するのだろう?」というまちがった問いを発する。そうではなく、なぜ彼らは、光線に対して固定した角度を維持することで進路を決めるような神経系をもっているのかと問うべきなのである。間違いを犯したときにしか、私たちは方策の存在に気づかないのである。このように問いを言い換えると、謎は消え失せてしまう。そもそも、それを自殺と呼んだのがまちがいだったのだ。それは、ふだんは役に立つコンパスが「誤作動」した副産物なのである。