アイザック・ニュートン(8)

 E.オマール著「不思議な数eの物語」より引用。

 微積分の発明は、2000年前にユークリッドが「幾何学原論」の中で古典幾何学の主要部分を編簿して以来の、数学における唯一最重大の出来事であった。これが数学者の考え方、研究の方法を永久に変えることになる。そして、この強力な方法は、純粋科学・応用科学のほとんどすべての分野に影響を及ぼすことになる。それにもかかわらず、論争に巻き込まれることを一生涯嫌ったニュートンはこの発明を公表しなかった。ケンブリッジの彼の学生や身近な仲間達に非公式に伝えるだけだった。1669年、彼は学術論文「無限個の項をもつ方程式による解析」を書いた。そしてそれを彼のケンブリッジの先生であり同僚でもあるアイザック・バローに送った。ニュートンが学生としてケンブリッジに来たとき、バローはケンブリッジの数学のルカス講座教授だった。その光学と幾何学の講義は若い科学者ニュートンに大きな影響を与えた(接線問題と面積問題の逆の関係についてバローは知っていたが、ニュートンの解析的方法と対照的に、厳密に幾何学的な方法を使っていたため、逆の関係の意義を十分には理解していなかった)。バローは後にこの名誉ある講座を辞することになる。その表面上の理由は、ニュートンがその講座を占めることができるようにということであったが、本当は、大学の管理運営や政治に携わりたかったかららしい(その名誉ある教授職にある者は大学行政に携わることを禁じられていた)。バローに勇気づけられ、ニュートンは1671年に自分の発明の加療版「級数と流率の方法について」を書いた。1704年になってやっとこの重要な仕事の概要が出版されたが、それもニュートンの主著「光学」の付録としてであった。しかし、主題の十分な解説が一冊の本として初めて出版されたのは、ニュートンが85歳で死んでから9年後の1736年だった。

 ニュートンは、やはりあまり社交的な性格ではなかったらしい。この人を疑うという正確は、著者も認めているように幼児期の体験が基になったのだろう。しかし、重要な発見が半世紀以上たってから発表されるというのは、現代の感覚からすると創造できない時間の長さだ。
 著作権を50年から70年に引き伸ばそうとする動きがあるが、ニュートンの時代だったらそれは必要だったのかもしれない。しかし、今日において70年も既得権を保護する法律を運用する必要があるかは、はなはだ疑問だ。