アイザック・ニュートン

 E.オマール著「不思議な数eの物語」より引用。

 アイザック・ニュートンはガリレオが死んだ年、1642年、のキリスト降誕祭の日(ユリウス暦による)にイギリス、リンカーンシャーのウィルスソープで生まれた。この一致には象徴的意味がある。なぜなら、ガリレオがそれより半世紀前に力学の基礎を築いていて、その上にニュートンが雄大な宇宙の数学的記述を建設したのだから。聖書の詩「一代過ぎればまた一代が起こり、永遠に耐えるは大地」(旧約聖書伝導の書1:4)がこれ以上的確に予言した現象はなかったといえよう。
 ニュートンの幼児時代は、家族の不幸が続いた。アイザックが生まれる数ヶ月前、乳が死んだ。母はやがて再婚したが、第二の夫も間もなく亡くした。若いニュートンは祖母の保護下に置かれた。13歳の時、彼はグラマースクールに行かされ、ここでギリシャ語とラテン語を学んだが、数学はごくわずかしか学ばなかった。1661年ケンブリッチ大学のトリニティ・カレッジの学生となったが、彼の生涯は決して順調ではなかった。
 新入生として彼は語学、歴史、宗教に重点が置かれた当時の伝統的な履修課程を学んだ。いつどのようにして彼の数学に対する興味に火がついたか、正確にはわからない。自分に入手可能だった数学の古典(ユークリッドの「幾何学原論」、デカルトの「幾何学」、ウォーリスの「無限の計算法」、ヴィエートやケプラーの著作等)を独力で勉強した。これらの著作に含まれている事実がよく知られている今日でも、どの一冊をとっても読むのはやさしくない。ごく一握りの人にしか数学的教養がなかったニュートンの時代にあっては、確かにそれは易しいことではなかった。他人の助けもなく、自分の考えを話す友人もなく、独力でこれらの著作を学んだという事実が、ニュートンという、外界からの刺激なしに偉大な発見をし続ける孤独な天才を作り出す素地を与えていた。
 1665年、ニュートンが23歳の時、ペストの発生でケンブリッジ大学は閉ざされた。ほとんどの学生にとってこれは正規の学業の中断を意味し、将来の履歴を損なうことになるかもしれなかった。この状況は、ニュートンにとっては正反対のことを意味していた。彼はリンカーンシャーの自分の家に戻り、二年間、まったく自由に、宇宙について考え、独自の宇宙観を形づくることができた。この「極上の年月」(彼自身が言った言葉)は彼の生涯で最も実り豊かな年月であった。そしてそれが以後の科学の流れを変えることになるのである。
 ニュートンの最初の大きな数学的発見の一つに無限級数があっった。nが正整数のとき(a+b)^nの展開式はn+1項の和からなり、その係数はパスカルの三角形から求められる。1664年から65年にかけての冬、ニュートンはこの展開式をnが分数の場合にまで拡張し、次の秋、nが負の場合にまで拡張した。

 E.オマールは、ニュートンに関してかなり好意的な描き方をしている。一方、「ビッグバン宇宙論 (上)(p.137-138)」を書いたサイモン・シンはニュートンに関して、次のように書いている。

 ニュートンは1642年のクリスマス(グレゴリオ暦では1943年1月4日)に、父親が三ヶ月前に死んだばかりという痛ましい状況の中で生まれ落ちた。アイザックがまだ幼かったころ、母親は63歳になるバーナバス・スミスという教区牧師と再婚したが、スミスはアイザックを家に迎え入れることを拒んだ。幼いアイザックの養育という仕事は祖父母の方に降ってかかり、アイザックは年を経るごとに、自分を捨てた母と義父に対する憎悪をつのらせていった。たとえば彼は大学時代に、子ども時代に犯した罪のリストを作ったことがあるが、その中で「父母であるスミス夫妻を家もろとも焼き殺すと脅したこと」を認めている。
 そんなニュートンが、気むずかしく、周囲から孤立し、ときには残酷にもなる大人になったとしても驚くにはあたらないだろう。たとえば1696年王立鋳貨局の監事に就任したときには、贋金作りをする者たちに対して非常に厳しい制度を作り、反逆者として罰することにした(受刑者は首を吊らされたのち、内蔵を引き出され、四つ割きにされるのだ)。贋金作りはイギリスを経済崩壊の危機に追いやっていたから、そのぐらいの処罰は必要だと彼は判断したのだろう。

 ニュートンの性格はあまり良いものではなかったように書かれている。どちらかというとサイモン・シンの方が事実に忠実な記載をしているようにも思えるが、ニュートンの業績を考える場合、その歪んだ性格にまで触れることが必要かどうかというと疑問を感じる。この後、ニュートンの数学的功績を後日引用していくのだが、その際にもサイモン・シンの記述を頭に入れて読むとまた違った印象を与えるかもしれない。