ルネ・デカルト

 E.オマール著「不思議な数eの物語」より引用。

 17世紀の始めの頃、何人かの数学者が独立にこの問題を解こうと企てた。その中で有名なのがピエール・ド・フェルマー(1601-1665)とルネ・デカルト(1596-1650)である。この二人とブレース・パスカル(1623-1662)を一緒にして、微積分の発明直前のフランスの代数学者三人組という。音楽界のバッハとヘンデルのように、デカルトフェルマーは一緒にして数学界の双子のようによくいわれる。しかし、フランス人でほとんど同時代人であるということを除いて、二人に似たところはほとんど見出せない。デカルトは職業兵士として人生を歩み始め、当時ヨーロッパを吹き荒れた地域戦争での戦闘行動を見た。彼はどちらの側でも自分を必要とする方に乗り換えて、一度ならず忠義を誓う相手を変えた。その頃のある夜、彼は神から宇宙の不可思議を解く鍵を預られたという啓示を得た。まだ軍務につきながらも、彼は哲学に転向し、ほどなくヨーロッパで最も影響力のある哲学者の一人になった。「我思う故に我あり」という彼の金言は、理性と数学的構想に支配される合理的世界の存在についての彼の信念の要約であった。しかし、哲学に没頭していたのに比べて彼の数学への興味は二の次だった。彼は意義ある数学の本をたった一冊だけ出版した(しかしその本が数学の流れを変えた)。彼の哲学書「正しく推論し科学の真理を探究する方法についての論考」の三つの付録の一つとして1637年に出版された「幾何学」の中出、彼は解析幾何をこの世の中に導入した。
 解析幾何の基本概念(デカルトがある朝遅くまで寝床にいて、蠅が天井を横切って飛ぶのを見ていて思いついたといわれている)は、平面上の各点を2本の定直線からの距離を表す2数で記述することであった。各点の座標を表すこれらの数により、デカルトは幾何学的な関係を代数的な式に翻訳することができた。とくに、彼は曲線をある与えられた共通の性質を持つ点の軌跡とみなした。すなわち、曲線上の点の座標を変数と考えることにより、その共通の性質をこれらの変数に関する方程式として表すことができた。簡単な例を挙げると、単位円は、中心から単位距離だけ離れた全ての(平面上の)点の軌跡である。座標系の原点に中心を選べば、ピタゴラスの定理を用いて、単位円を表す方程式x^2+y^2=1が得られる(すでに述べたように、これは一般の2次方程式の特別な場合である)。注意すべきことは、デカルトの座標系が直交座標系でなく斜交座標系であったことと、正の座標だけ、つまり第1象限の点だけ、を考えていたことである。このことは今日の慣行とは相当な隔たりがあった。
 「幾何学」は次の世代の数学者達に多大の影響を与えた。その中に若いニュートンがいた。彼はケンブリッチの学生だったとき、その本のラテン語訳を買い自分で勉強した。デカルトの本は、幾何的な作図と証明とを本質とする古典ギリシャ幾何に終焉をもたらした。その時以来、幾何学は代数学とは不可分なものとなり、また、やがて微積分学とも不可分なものとなった。

 冒頭のこの問題とは、双曲線y=1/xの下の面積を求めるというもの。まだ微積分が発明される以前だったので、未解決の問題であった。
 ところで、デカルトの「幾何学」が出版されるまで座標という考え方が無かったというのは驚きである。それまではギリシャ時代からずっと幾何学的な作図をして証明を行い、問題を解いていたということになる。いつ頃座標を習ったのか定かではないが、小学校の高学年かもしくは中学1年ごろだろうか。それ以降、デカルトが提案した座標は自分にとって数学を扱う上で切り離すことができないものになっている。三次元までならいいが四次元以降はお手上げだが・・・。
 2本の定直線からの距離を表す二つの数とは、ヨコ方向を表す線(=x軸)とタテ方向を表す線(=y)の2直線からのそれぞれの距離であるxyのことを指している。ただし、デカルトのときは直交座標系ではなかったということなのでこの通りの2直線ではなかったということになる。座標上の点pを(x,y)などと書いたり、座標系の直線や曲線を方程式を使って表したりすることもデカルト以降に可能になったということなのだろう。
 デカルトというと哲学者としての方がイメージが強い。しかし、たった一冊の数学の本が数学の世界をガラリと変えたことは驚きである。まあ、ニュートンやアインシュタインも同じではあるが。