象徴に過ぎなかった経済法令

 郷原信郎著『「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)』(新潮文庫)からの引用。

 日本では、経済活動に関し、いわゆる業法などの膨大な法令が整えられています。それは、相互の矛盾がないように精緻に調整されています。しかし、こうした膨大な経済法令が整備されても、実際にそれに基づく行政処分が行われたり、司法の場で適用されて判決が出されることはほとんどありませんでした。
 つまり、精緻な法令の存在意義は、国がやっていることに間違いはないとの信頼を与える「象徴」にしか過ぎなかったのです。
 象徴的存在にとどまっていたために、日本の経済社会では法の執行が極めて貧弱でした。経済法令の多くには違反行為に対する行政処分や罰則が設けられていますが、実際に行政処分が行われたり、ましてや罰則が適用されたりすることはほとんどありませんでした。それが、違法行為をそのまま容認し、常態化させることにつながりました。非公式の談合システムが定着し、独占禁止法に違反する談合が常態化していたことや、証券取引法に違反する行為が横行していたことなどは、その典型です。
 しかし、1990年代以降は、規制緩和、経済構造改革の流れの中で、自由な事業活動、自己責任原則が強調され、「事前抑制は行われず、何でも自由にやらせるが、ルール違反や違法行為に対しては事後的に厳しくチェックする」という考え方が中心になりつつあります。

 ではルール違反や違法行為に対する罰則が強化されたのかというとまだそうでもないらしい。その理由は、行政官庁間の壁にあるらしい。経済省と法務省の隙間に問題点があって、どちらも自主的に動こうとしないのが現状のようだ。しかし、何れは強化されていくと思われる。
 日本企業の場合、自己責任原則に対する対応があまいような気がする。グローバル社会では、自己責任原則に対応できないと致命傷になりかねない。
 しかし、世の中は本当にグローバル社会に進むのだろうか?エネルギー問題や資源枯渇問題を考えるとそんなに遠くない時期に地域分散型社会へとシフトしていくのではないだろうか。各国のエネルギー対策を見ているともう地域分散型社会への模索が始まっているような気がする。情報網だけはグローバル化するとしても、資源に関しては、間違いなく地域分散型となると思う。