コンプライアンス

 郷原信郎著『「法令遵守」が日本を滅ぼす (新潮新書)』(新潮文庫)からの引用。

 アメリカのような法廷中心、司法中心の国では、法令を遵守することが社会的要請に応えることになりますから、コンプライアンスを法令遵守と置き換えることにも合理性があります。
 一方、日本では単純に法令遵守を徹底しても、世の中で起きている様々な問題を解決することにはつながりません。法令の背後にある社会的要請に応えていくことこそがコンプライアンスであると認識し、その観点から組織の在り方を根本的に考え直してみることが重要です。
 「社会の要請に応えること」と書くと、何やら特別なことのように思えます。しかし、本来は組織や人が、それぞれの状況に応じて自然に、当たり前に行ってきたことです。そういう当たり前のことを、なぜわざわざコンプライアンスなどというカタカナ言葉を使って考えなければ行けないのかと、疑問に思われる人もいるでしょう。
 多くの人にとって、社会とは、これまでは会社中心でした。会社の利益に貢献することが即ち社会の要請に応えることでした。そして、その会社自体も、戦後の高度経済成長期までは、経済官庁などの行政指導によりコントロールされた経済社会の枠組みに属していました。
 こうした何重もの構造が定着していたので、個人が社会の要請に直接向き合うことはほとんどありませんでした。官庁も企業も、社会の要請は何かということを自ら考えなくても済んでいたのです。
 しかし、そんな状況は、最近になって大きく変わりました。規制緩和の流れのなか、自己責任の原則に基づいて自由に事業活動を行うことが保障された企業は、自ら意志決定することを求められるようになりました。つまり、企業も、企業に属する個人も、社会的要請に直接向き合わなければならなくなったのです。ただ一方で、社会や経済の急激な変化に伴って社会的要請の内容も複雑化、多様化し、それに応じることは簡単なことではなくなっています。

 著者は、日本の場合、法令遵守だけではコンプライアンスではないと言っている。法の背景にある社会適用性に応えていく必要があると。確かに、PRTR法でも化学物質の量的把握を求めているだけで、そのあとの対応については各企業に任す自主規制がとられている。
 この間、化学物質と環境円卓会議を傍聴してきたのだが、各業界の代表者たちもこの部分がわかっていないように感じられた。円卓会議のテーマは、LCAだったのだが、自動車業界の方が、「化学物質までLCAを採用するのか」といった意味合いの発現をされていた。自動車業界の場合、環境、とくに二酸化炭素排出に関してのLCAをすでに実施しており、その上材料に含まれる多種多様の化学物質までLCAを行うのでは、対応しなければならない他の規制(新たなEU規制など)に対応しきれないとの意味合いであった。
 未だに、官庁の要請に企業が応えるといった構図がその背景にあるように感じた。しかし、最近の法律を見る限り、企業に自己責任を課しているのは明らかであり、それに対応しきれないようでは業界団体の意義がなくなってしまうような気がする。
 社会的要請を各企業や個人が同じ認識で共有することがまず第一で、それに向けた法令整備も必要だと思う。この共有認識こそが今の社会では不可欠なものになってきているということだろう。
 この本を読んでいて、少し気になったのが、環境問題が希釈なところ、鉱物資源やエネルギーの枯渇問題については何ら考慮されていない。社会的要請の中で、いちばん隠れているものがこの枯渇問題だと思うのだが。