ロバート・セインバーグの仮説(1)

 デイヴィッド・ウォルマン著「「左利き」は天才?―利き手をめぐる脳と進化の謎
」からの引用。

 この協調運動の件をもっと理解するために、ペンシルベニア州立大学の運動神経科学研究所にロバート・セインバーグを訪ねた。(中略)
 「協調運動とは、生体力学的な要素と筋肉を調和させて、望みどおりの動きを実現する能力なんだ」この能力があるからこそ、食器棚の奥にあるワイングラスをつかんで、他のグラスや皿をなぎ倒すことなく取り出せるのである。
 だが、筋肉はどうやって、前腕部が目標を外れて大きく振れないようにしているのだろうか。手短に言えば予測である。もう少し本書の話題に即して言えば、脳が動きをシミュレーションするのである。さまざまな力の配分の仕方を事前に綿密に計画すること。それこそが、ぼくたちが毎日数えきれないほど当たり前のように行っている協調運動の正体である。だから、フライパンを持ち上げ、車を運転し、ボールを投げることができる。
 とはいえ、誰もが知ってのとおり、利き手とそうでない手では強調のレベルに明らかな差がある。その差が、日常レベルで左利きと右利きを分けるいちばんの決め手ともなっている。セインバーグはこの差異をいろいろな角度から研究してきた。その結果、運動能力を重視する彼ならではの視点から、それぞれの手の役割と利き手の起源に関する斬新な考え方にたどり着く。「今ある仮説はどれも、言語や認知機能と利き手とのあいだに関連があるという前提に立っている」とセインバーグは指摘する。左脳が言語をコントロールするようになり、その進化の過程でどういうわけか利き手が派生してきた、転がり出てきたというのが主流の見方だ。「それはすごく変だと思うんだ。言語ではなく、運動の協調に関わることなんじゃないだろうか」
 たとえば槍を投げるといった動作を行うのに、脳と体のあいだでどれだけ複雑なコミニュケーションが必要になることか。それを思えば、進化の圧力はよりよい強調運動ができる方向に働いて、より高度な動きを実行できる脳が選ばれたと考えられるのではないか、とセインバーグは語る。「協調運動は、適応的な行動の最たるものだ。だとすれば、初期の人類が生き残るうえで、この能力が大きな役割を果たしたのは間違いない」セインバーグの見解は、脳内の配線や再配線のおかげで新たな機能が発達したという点では言語説と似ている。ただ、「進化の圧力」によって高まった能力が、認知機能ではなく協調運動だと見ているところが違う。

 この本によると利き手が生じた起源はここに書かれているように、発語起源説が一般的に普及しているようだ。その意味では、セインバーグの考え方は斬新的なのかもしれない。
 普通、協調運動は無意識の中で行われている。歩くという動作や階段を下りるという動作は協調運動だが、意識して行っているのではなく、何も考えずに行動している。従って、ここで書かれている脳と体のあいだで行われているコミュニケーションは、無意識の中で行われていることになる。
 これが、どういう意味を持っているかというと、私たちは言語を用いずに考え判断しているということだ。従って、協調運動を伴う行動の場合、少し乱暴な言い方をすれば、言語を使わずに判断していることになる。電話のベルがなったので、受話器を取る。「ベルが鳴っている」、「受話器をとる」という意識はあるが、手を受話器まで何気なく持って行ける行動を私たちは意識していない。しかし、ここではかなり高度な協調運動が行われているのである。
 従って、セインバーグ氏が唱えている説は、非常に説得力があるように感じる。実は、もう一歩踏み込んだ判断がこの後登場してくるのだが、それについては次回記載する。