左利きの悲しい歴史

 デイヴィッド・ウォルマン著「「左利き」は天才?―利き手をめぐる脳と進化の謎」からの引用。

 今のところ、左利きを結びつけているらしき唯一のものは、悲しい歴史である。不安を覚える多数派からは、邪悪、不器用、劣等の烙印を押されてきた。科学やエセ科学によってときおり断片的な研究の対象にされても、もくろみどおりに本質が明らかになるどころか、往々にして混乱が深まるだけで終わってきた。
 西洋社会で、左利きは長らく最低最悪のイメージと結びつけられてきた。罪、悪魔崇拝、サタンそのものなど、神と相容れない存在すべてである。かつてカトリック系の学校では、左利きは「けだもののしるし」だと教えていた。スコットランドでは、左利きの司祭に洗礼を施されるとひどい不運に見舞われる、等と言う。正統派のユダヤ教徒は、朝の祈祷の際に聖句箱のついた皮紐を左腕に巻きつける。ローレンス・クシュナー師の言葉ではないが、まるで「私はこうして自らの危険な側を抑えつけて、祈りに臨もうとしています」と宣言しているかのようだ。聖書には手が頻繁に引き合いに出され、しかも慈悲深くて聖なる御業を神が右手で行った話がほとんどである。聖書をめくって探すのも手間だろうから、代表的な例を一つ紹介しよう。詩篇118にこんな一節がある。「主の右の手は高く上がり 主の右の手は御力を示す」
 「左(left)」の語源を考えると、これまた気が滅入ってくる。古英語ではlyftと綴り、「弱い、壊れた」という意味だった。現代の辞書を見ても、leftの項目には「欠陥のある」「不具の」「不手際な」「不適切な」「下手な」「不器用な(moladroit)」といった意味が含まれている。最後のmoladroitはフランス語からの借用後なのだが、文字どおりの意味は「悪い右」だ。

 実は、自分は左利きだ。広辞苑を見ると、日本ではそんなに悪い意味で「左」という字を使っていないようだ。しかし、左器用と書いて「ぎっちょ」と読むらしい。この左器用は差別語として扱われているが、どういう差別なのかを自分は知らない。
 西洋社会では、左利きに対しての差別が明らかにあったのだろう。全体の10数パーセントしか存在しない左利きは、とくに宗教の観点からみると、異端児扱いされたものと思われる。それにしても、英語の語源はびっくりである。