貧困の罠

 ジェフリー・サックス著「貧困の終焉―2025年までに世界を変える」から引用。

 最貧国にとって大きな問題は、貧困そのものが罠になっていることである。極度の貧困に陥っている場合、貧しい人びとはその窮地から(自分自身で)脱出する力をもたない。それはなぜか。一人当たりの資本不足ゆえの貧困を考えてみてほしい。貧しい田舎町で、トラックも、舗装道路も、発電設備も、灌漑水路もない。飢えと病気にさいなまれて人的資本はきわめて貧しく、無学の村人たちは生きるだけで精一杯だ。天然資源も枯渇している。木々は切り倒され、土地は痩せている。こんな状況で求められるのは、より多くの資本(物質的資本、人的資本、自然資本)だが、資本投下のためにはより多くの貯蓄がなければならない。たとえ貧しくても、極度の貧困でなければ、なんとか貯蓄ができるかもしれない。しかし、極度の貧困では、収入のすべて、あるいはそれ以上を、ただ生きるために使いはたしてしまう。生きるのに精一杯で、将来の資本のために収入を貯蓄するゆとりなどまったくない。
 極度に貧しい人びとが低い経済成長率(マイナス成長率)から抜けだせないおもな理由はここにある。あまりの貧しさゆえに、将来のための貯蓄ができず、惨めな状態から抜け出すのに必要な一人当たりの資本を貯蓄することができないのだ。最も貧しい国の貯蓄率が低いのは、収入のすべてを生きるために使っているからだ。
 それどころか、国家統計局による国内貯蓄の標準的な調査では、貧困層の貯蓄額が課題評価されがちである。なぜなら、これらのデータは最低貧困層が自然資本を使いはたしている現状を見ていないからだ。彼らは気を切り倒し、痩せた土壌を酷使し、鉱物やエネルギーや埋蔵金属を掘り尽くし、魚を獲りつくしている。このような自然資本について、国家統計局のデータは視野に入れておらず、結果として、それらの「下落」ないし枯渇は貯蓄のマイナスとして捉えられていないのだ。切り倒した木を薪として売り、新たな苗木を植えなかった場合、木を切った人が得た金は収入として計算される。だが本当なら、資産上の一つの項目(樹木)を財政上の一つの項目(金)に転換してものと考えるべきなのだ。

 自然資本の取扱いは、環境を考えていく上でも重要なファクターだと思う。普通の国でも自然資本は曖昧に取り扱われているように思える。バイオマスを扱うときも、この資産上の一つの項目から一つの項目への転換という考え方をすべきだろう。そして、転換されたバイオマスの育成は必ず行わなければならない。安易にエネルギーになるからとメンテナンスを行わず、バイオマスを収穫してしまうと、その土地がやせ細り、荒れ地へと変貌してしまう恐れもあるかもしれない。
 人間以外の生物すべては、だた生きることしかできない。人間だけが貯蓄できる力を持っている。それなのに、一部の最貧国ではそれすらかなわない状況にある。この本を読んでいると、日本というかなり裕福な国にいる自分たちが何か行動を起こさなければ行けないと感じてしまう。