遺伝子数

ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (下)―ゲノム解読から遺伝病、人類の進化まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 現在、ヒトの遺伝子数は約3万5千個と推定されているが、これでもまだ人間が遺伝的に実際よりも複雑であるかのような印象を与えかねない。というのも、遺伝子のなかにはよく似た機能をもつものがあるからだ(そのような遺伝子群のことを「遺伝子ファミリー」と呼ぶ)。
 遺伝子ファミリーは「遺伝子重複」というプロセスにより偶然に生じたものである。遺伝子重複とは、生殖細胞卵子と精子)ができるときに、染色体の一部がたまたま複製され、一本の染色体上に同じ遺伝子がふたつ乗ってしまうことだ。一方の遺伝子が機能している限りは、もう一方の遺伝子は自然選択を受けないため、突然変異が蓄積して勝手な方向に進化する。実際、ヒトの遺伝子の多くは、比較的少数の基本的遺伝子が少しずつ変化したものから成り立っているのである。
 たとえば、ヒトの遺伝子のうちの575個(全体の2パーセント弱)は、さまざまなタイプのプロテインキナーゼ(細胞内で信号を伝える化学物質)を暗号化している。また私たちは、臭覚に関係する遺伝子を900個ももっている。それらは臭いの受容体となるタンパク質を暗号化しており、それぞれの受容体は異なるグループの「匂い分子」を認識する。マウスもほぼ同じ900個ほどの臭覚遺伝子をもっているが、そのほとんどがきちんと機能している。夜行性の動物として進化してきたマウスにとって、臭覚は重要だったからだろう。
 ところがヒトの場合、臭覚遺伝子の60パーセントほどが、進化の過程で機能しなくなっている。おそらく、ヒトが視覚に頼るようになるにつれ、必要な臭覚受容体は少なくなり、突然変異により臭覚遺伝子がタンパク質を作れなくなっても自然選択が働かなかったためだろう。結果として、私たちは他の温血動物よりも臭覚が鈍い。

 ヒトの遺伝子数は、他の生物と比較して際だって多いわけではないらしい。私たちはアブラナと比べてそれほど複雑ではないという(アブラナの遺伝子数は27000)。著者は、ヒトは知的だからこそ遺伝子が少なくてすむのだろうと言っている。
 根を張った植物の場合、行動の選択肢はヒトに比べてぐっと少なくなる。そのため植物は、様々な環境変化に対処するために多数の遺伝的手段を持たなくてはならない。それに対して、脳を持つ生物の場合は、急に寒さが襲ってきたとしても、神経細胞を使い、より過ごしやすい環境を見つけることができる。
 このように、遺伝子数の大小がその生物の優劣を決めるわけではないみたいだ。それよりも、人間の臭覚遺伝子の60%以上が使えなくなっていることの方が驚きだった。もともとは、マウスと同じ数だけの臭覚受容体を持っていたことになる。