何千年も昔から遺伝子組み換え食物を食べていたという事実

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 遺伝子組み換え食品に関する論争が渦巻いている今日、私たちは何千年も昔から遺伝子改良をした食物を食べていたという事実を知っておくことには大きな意味がある。食肉用の家畜や、穀物や果物や野菜などの農作物の遺伝的性質は、原種からは遠く隔たったものなのだ。
 農業は、一万年前にいきなり完成した形で誕生したわけではない。農作物の祖先となった野生の植物が、昔の農民にもたらした食糧はごくわずかなものでしかなかった。野生の植物は収穫量も少なく、育てるのも容易ではない。農業がさかんになるためには、品種改良が不可欠だった。
 昔の農民たちは、望ましい特性を何世代にもわって保つためには同種交配を繰り返し、農作物を(私たちの言葉で言えば「遺伝的に」)改良する必要があることを知っていた。そして農民だった私たちの祖先は、遺伝子組み換えという壮大なプロジェクトに踏み出したのである。
 そのころは遺伝子銃などなかったから、農民たちは一種の人為選択をするしかなかった。たとえば、乳量の多い雌牛のように、有用な特徴をもつ個体のみを繁殖させたのである。そうすることで農民たちは自然選択を代行したのだ。さまざまな遺伝的変種が得られたなら、その中から目的にかなうものを選び出し、次の世代には(農民の場合は「消費」という目的に、自然の場合は「生存」という目的に)もっともうまく適応した個体を増やすようにする。
 今日私たちはバイオテクノロジーによって望ましい変種を作れるようになったので、有用な変種が自然に現れるのを待たなくともよくなった。この意味でバイオテクノロジーは、人類の長い歴史の中で、食物の遺伝子を組み換えるために使われてきた多くの手法のうち、もっとも新しいものにすぎない。

 日本に置き換えて考えれば、松阪牛などのブランド牛は、まさしく遺伝子組み換え動物に他ならない。遺伝子組み換え食品に反対している人たちは、こうしたブランド牛を本当に食べていないのだろうか。小麦にしても、ブリューゲルの作品「穀物の収穫」(16世紀当時)と現代の収穫写真を見比べると、その背丈が現在では16世紀当時に比べ半分になっていることがわかる。これは、品種改良で収穫を容易にすることと、茎を伸ばすことにエネルギーを費やさなくて済むようにしたことによる違いだ。ここでも遺伝子組み換えが行われている。
 私たちが食べている食物で品種改良が行われていないものがどれほどあるのだろうか。ほとんど、ないと思う。特にブランド名のついた食物は、すべて遺伝子組み換え食品であると断言できると思う。
 一方、石油枯渇が叫べれはじめられる前に代替エネルギーの確保が求められている。その一番の有力候補は、バイオマスエネルギーであり、植物からエネルギーを得ようとする動きだ。食物以外にも植物を利用しなければならなくなると、植物の育成の効率性がより求められるようになるだろう。そのとき、遺伝子組み換え技術は、もっとも重要な技術となり、無くてはならないものになるはずだ。感情的だけで反対している場合ではないと思う。