ガモフの登場

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 二重らせん構造を発表してまもなく、フランシス・クリックと私は、ロシア生まれの著名な理論物理学者、ジョージ・ガモフから手紙をもらうようになった。彼の手紙はいつも手書きで、落書きやごちゃごりゃした書き込みやらがしてあった。そしていつも「Geo」(「ジョー」と読むことを後で知った)とだけ著名してあった。
 ガモフはDNAに興味をもち、イングラムがDNA塩基の配列とタンパク質のアミノ酸配列との決定的関係を明らかにする以前から、DNAとタンパク質の関係に関心を寄せていた。生物学がついに精密化学になりつつあると感じたガモフは、アデニン、チミン、グアニン、シトシンを意味する一、二、三、四という数字の長い羅列だけによって、あらゆる生物が遺伝学的に説明される日が来るだろうと予想した。
 最初、私たちは彼が冗談を言っているものと思い、一通目の手紙を無視した。だが数ヶ月後、クリックがニューヨーク市でガモフと会い、その才能の大きさがよくわかったので、私たちはDNAという時流に乗ってきた最初の人物として彼を歓迎することにした。
 私がガモフと初めてあったのは1954年のことだったが、そのころ彼はすでに、「重なり合う三つ組みの塩基」(オーバーラッピング・トリプレット)がアミノ酸を指定するという考え方の枠組みを打ち出していた(GATTACAという配列なら、GAT’ATT’TTA’TACがそれぞれアミノ酸を指定することになる)。そのアイディアの基礎にあるのは、塩基対それぞれの表面には、いずれかのアミノ酸の表面の一部と噛み合うような形のくぼみがあるという考えだった。
 私はガモフに、それはおかしいと言った。なぜなら、DNAそのものを鋳型としてアミノ酸が並んでいき、それがつながってポリペプチド鎖(つながったアミノ酸のこと)になることはありえないからだ。タンパク質(つまりポリペプチド鎖)は、DNAの存在する場所(すなわち核内)で合成されるわけではないことは、すでに示されていた。物理学者であるガモフは、それを証明した論文を読んでいないのだろうと私は思った。実際、細胞から核を取り除いても、タンパク質が作られるペースに直接的変化はないことが知られていたのである。
 現在では、タンパク質が作られるのは細胞内のリボソームという微粒子であることがわかっている。そのリボソームには、RNAという、ふたつめの核酸が含まれている。
 RNAが生命というパズルのなかでどんな役割を果たしているのかは、当時はまだよくわかっていなかった。

 サイモン・シン著「ビッグバン宇宙論 (下)」の主人公の一人である理論物理学者ガモフが、ここで登場してくる。ガモフは、1948年に宇宙全体に存在するさまざまな元素の量を、ビッグバンの初期に起こった核融合反応と関係づけて説明した。ガモフと彼の学生だったアルファーによるこの仕事は、本来なら「アルファー、ガモフ」の連盟で発表すべきだったが、ガモフは、論文には無関係だった友人の物理学者ハンス・ベーテの名前を勝手に付け加えて、「アルファー、ベーテ、ガモフ」とし、しかも4月1日に発表するといったおふざけ好きな人物である。この論文は、今でも「アルファー・ベータ・ガンマ論文」と言われている。
 当時、一番知名度のないアルファーは、このガモフのおふざけにより、自分の名が目立たなくなることを非常に恐れた。その辺の話は、ビッグバン宇宙論に書かれている。