エルヴィン・シュレーディンガー著「生命とは何か」

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」からの抜粋。

 私が遺伝子に夢中になったのは、1944年に出た「生命とは何か」という小さな本に感動したからだった。著者は、オーストリア生まれで、波動力学の父と言われるエルヴィン・シュレーディンガーである。その本は、彼が前年にダブリン高等研究所で行ったいくつかの講演をまとめたものだった。
 シュレーディンガーは、生命とは生物学的情報を蓄えたり、それを伝えたりするものとして考えられると論じていた。その立場から見れば、染色体は情報の運び手にすぎない。ひとつひとつの細胞に詰め込まれた情報は膨大な量にのぼるはずだから、情報は染色体という分子の線維に埋め込まれた、シュレーディンガー言うところの「遺伝暗号文」になっていなければならない。そうだとすれば、生命を理解するためには、染色体の分を突き止め、暗号を解読する必要がある。
 彼の本の影響力は絶大だった。フランシス・クリック(彼も元は物理学者だった)をはじめ、分子生物学という壮大なドラマの第一幕で重要な役を演じることになった人々の多くは、私と同様、この「生命とは何か」を読んで感銘を受けていたのである。
 シュレーディンガーがダブリンで公演を行った当時、ほどんどの生物学者は、遺伝仕様書の主要な運び手はタンパク質だろうと考えていた。タンパク質は、二十種類のアミノ酸を構成要素とする分子の鎖である。この鎖に沿ってアミノ酸を配列していく並べ方はほとんど無限にあるため、タンパク質ならば、生命の驚異的な多様性を支えている情報を暗号化することも、原理的には容易にできるはずだった。一方のDNAは染色体上にしか見られず、75年ほど前からその存在は知られてはいたものの、暗号の運び手として有力視されていなかった。
 1869年、ドイツで研究していたスイス人生化学者フリードリヒ・ミーシャーは、ヌクレイン(「核から見つかった物質」の意)は染色体にしか見られないことに気づき、自分は重大な発見をしたことを悟った。1893年、彼は次のように書いている。「次の世代へと形質を伝えている遺伝は、分子よりも深いところ、分子を構成する微少な物質群の中で起こっている。この意味において、私は化学的な遺伝理論を支持する」
 ところがその後何十年ものあいだ、化学には力が足りず、DNA分子の大きさや複雑さを分析することができなかった。ようやく、1930年代に入り、DNAが、アデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトシン(C)という、四つの異なる塩基を含む長い分子であることが解明された。
 しかし、シュレーディンガーが講演を行った当時は(1940年代前半)、DNA分子のサブユニット(「デオキシヌクレオチド」と呼ばれるもの)が化学的にどう結合しているのかは未解明だった。それどころか、DNA分子ごとに四種類の塩基の並び方が違うのかどうかもわかっていなかったのだ。

 シュレーディンガーの「生命とは何か」は、多くの分子生物学者に感銘を与えたようだ。この本に登場してくる分子生物学者を著者が紹介するにあたり、この本がきっかけで、分子生物学に入ったきたと紹介している部分が節々に出てくる。また、ジョン・メイナード・スミス著「生命進化8つの謎」の巻末でも参考図書として紹介されている。
 日本では、岩波新書として出版されているが、版が古く、なかなか本屋で見つけにくいのが現状である。岩波書店のページを見ると、品切重版未定となっている。こういう世界的名著こそ、きちんと重版してもらいたい。
 シュレーディンガーが講演を行った当時、多くの生物学者は、遺伝仕様書の運び手は、タンパク質だと考えていたようだ。DNA自体は、注目もされていなかった。しかし、1944年、「生命とは何か」が出版された年に、重要な発見が報告され、DNAが注目を浴びるようになる。このへんの話は、次回抜粋する。