優生学の誕生

 ジェームス・D・ワトソン、アンドリュー・ベリー著「DNA (上)―二重らせんの発見からヒトゲノム計画まで (ブルーバックス)」上からの抜粋。

 ダーウィンは、遺伝的変異は、彼自身の言う“生存競争”において有利になる個体が生じることを意味すると指摘した。(中略)
 ヴィクトリア時代の人々は、その理屈を人間にも当てはめた。彼らは社会を見渡し、目にしたものに恐れおののいた。品が良く、道徳的で、勤勉な中流階級よりも、不潔で、不道徳で、怠惰な下層階級のほうがずっとたくさん存在していたからである。
 当時の人々は、上品さ、高潔、勤勉といった美徳も、不潔、不貞、怠惰といった悪徳も、家系に伝わる特質であり、代々遺伝していくものと考えていた。彼らにとって道徳や不道徳は、ダーウィンの言う遺伝的変異の一例に過ぎなかったのだ。もしも数において優る下層民がこのまま上層階級よりも増え続けていくなら、「不良」遺伝子が広がり、人間は滅んでしまうだろう、と人々は考えた。(中略)
 ダーウィンの「種の起源」に感銘を受けたゴールトンは、社会的・遺伝学的な革命運動に乗り出した。1883年、ダーウィンの死の翌年、ゴールドンはその運動に“優生学”と名づけた。(中略)
 1869年には、優生学に関するその思想の土台となる「遺伝的天才:その法則と重要性に関する研究」を出版した。この中で彼は、“ハプスブルクの唇”のような単純な遺伝形質のように、才能もまたたしかに受け継がれていくと主張した。(中略)
 形質は遺伝によって決まると確信したゴールトンは、優れた個人には優先的に子どもを作らせ、そうでない個人には子どもを作らせないようにすることにより、人間を「改良」できるだろうと主張した。(中略)
 少数の優れた中流階級の家系と下層階級の家系との結婚が非常に増えていたことから、ヴィクトリア時代の人々は、社会が「優生学的危機」に立たされていると思いつめていた。そして優勢主義者たちは、どんな人間が子をもつべきかを意識的に選択することにより、そんな事態を阻止できると信じたのである。

 ここに出ていくるフランシス・ゴールトンは。ダーウィンのいとこであり、友人でもあった。ダーウィンよりも13歳年下だった。ゴールトンの優生学は、19世紀中ごろまで延々と受け継がれることになる。そして、アメリカやナチスドイツで起こった人種差別へと発展していく。著者は、優生学から発展する人種差別までの道のりを遺伝学の負の遺産として語り継いでいく必要があると述べている。
 同じような考え方は、現在でも残っているような気がする。何かをきっかけに極端な人種差別が起きる可能性は否めない。北朝鮮に対する高圧的なアメリカの手法は、北朝鮮に住んでいる多くの貧困層をより厳しい立場に追い込んでいってしまう可能性が高いと思う。日本は、それに便乗するのではなく、アメリカに中国とロシアを含めた各国の調停役として主案を奮える良いチャンスだと思う。強権的な政策でなく、柔軟性をもった対応が必要だと思っている。